日本中世の墓と葬送

日本中世の墓と葬送

p2:横浜市金沢区の上行寺東やぐら群遺跡→一部レプリカ化、静岡県磐田市の一の谷中世墳墓群遺跡→隣接地にごく一部移転保存
p3:滋賀県犬上郡多賀町敏満寺の石仏谷墓跡はH17年に史跡指定
p4:鎌倉市由比ガ浜南遺跡:3000体以上の集積埋葬、広島県福山市の草戸千軒町遺跡:犬の噛み跡のある人骨
・中野荳任『忘れられた霊場ー中世心性史の試み』
P30:葬送互助の欠如ー葬送は親族のみが携わる。一人暮らしの死人が出ても隣人は放置
『発心集4巻:10話』、『八幡愚童訓・乙・下巻3話』、『沙石集1:4』、『拾遺往生伝・中:26話』、『後拾遺往生伝・上:19話』、『今昔物語集24巻:20話、27:15』
P34:『東大寺諷諷文稿』、「貧人」とは家族無く富家に使役される存在
P38:(通説)「死者→(穢)家族・他人」が →「死者・家族→(穢)他人」になる。
ボルネオのベラワン族では夫が死ぬと妻は死体の隣小屋に11日間閉じ込められるので、入浴・着替えが出来ない。
P48:台湾蘭嶼のヤミ族は普通の死者は土葬、身寄りの無いのは風葬
P69:「地主サン」、屋敷墓の存在は「死穢をなんとも思わない」態度である。(高取正男
P79:「信濃田切里の或武士の屋形の屋敷墓」ー『一遍上人絵伝4巻、清浄光寺所蔵』、 
・塚原、石塚、土塚、狐塚、千塚、大塚、
塚原→墓原(はかわら)の移行には墓標の普及があった。
P129:中世前期以前、墓所・葬送は多様、同一村落でも階層により葬制が異なる模様、しかし、近世以後は同一村なら墓地は皆同じ場所、火葬の村なら皆火葬、土葬の村なら皆土葬で葬式のやり方も階層差は無くなる。
P131:刀の切れ味を試す死体を「墓原」に探すのは風葬または遺棄死体があったため。鈴木正三『反故集』1671年
P132:火葬(上)>土葬(中)>風葬(下)、互助組織による標準化が「土葬」へ?
P136:穢の分類と研究史
1)『延喜式』などの触穢規定に現れる穢
2)最も清浄な「京都内裏」を中心に穢れが周辺から侵入するという同心円構造
3)らい者・非人の穢
4)共同体のとるエネルギーの状態の一つとする考え(民俗学の三極循環論、桜井徳太郎が代表的、史料的な実証は困難なので本書では取り上げていない)
P138:制度上の穢と身分:中世神社の大床の下にいた「宮籠」と呼ばれる従属民の中には「イフセクアサマシケナルカタワ人」(『文禄本平家物語』第一)、「八王子の下殿に宮籠などいふあやしきの乞食非人」(『日吉山王利生記』)がいた。中世の触穢人は神社・神域への立入禁止で、乞食非人が触穢人と同じ扱いを受けるなら境内床下に入れない筈。
北野社に代々出入りの河原者「千本赤」は役目がら肉食を謹んでいたが(『北野社家日記』延徳2年(1490)4月13日条)、触穢規定にある肉食の穢を除けば河原者自身は神社が忌避する穢・存在ではなかった。
p139:中世では触穢観念が「肥大」する。(黒田俊雄)
非人の穢:律令制の下ではらい者に対する差別はなく、中世に法華経などの影響で穢とされるようになる。(丹生谷哲一)
規定上の触穢は『延喜式』巻3(神祇三、臨時祭)のー人死(30日)、人の産(7日)、六畜死(5日)、鶏を除く六畜産(3日)喫宍(3日)
p140:律令制度下の触穢とは神事の際に障害となるものを列挙したもので、制度上の穢はそれ自体が忌避されるものではなく、神事に関係する場合のみ問題となる。穢となる行為(死穢、産穢)自体が恐怖の対象ではない。
山稜の祟り:『続日本後記』承和11年(844)8月5日条でー先帝(嵯峨)の遺詔では霊の祟りなどないとされているのに、物怪の際に占ってみると先帝の祟りだと出るのはなぜかという議論があり、文章博士春澄善縄・大内記菅原是善らは死後の境遇は生前の予想とは違う、死の直前の遺言は心神が乱れているから従うべきでないことがあると故事を引いて答申している。
『三代実録』貞観8年(866)8月18日条ではー応天門の火災原因を卜占したところ、御陵の犯穢(木の伐採)と出たので諸の山稜に遣使して謝罪をしている。(後日、伴善男の犯行となるが)
p143:災害の説明原理としての穢:観念上の因果関係はー
(山稜の伐採等による)犯穢が起こる→山稜の祟り→(旱魃・物怪・天皇の病等の)災厄の発生ー
だが、実際の因果関係は反対にー
災厄がある→神祇官陰陽寮が卜占→山稜の祟りと特定→祟りの原因は犯穢ー
という過程で、「犯穢」は災厄の説明原理として機能していた。
続日本紀』には災害が起こると天皇が自ら不徳を反省して大赦などの「徳政」を行う宣命が多く載っているが、次第に政治責任を回避して災害を穢の外部要因に帰する様になる。これが山稜の祟りとして9世紀半ばに現れる一つの契機は承和7年(840)5月8日に崩御した「淳和上皇」が遺詔で山稜を造らずに「散骨」すること命じ、それが実行された(『続日本後記』承和7年5月6日・13日条)ことであったかもしれない。以前にも山稜の祟りはあるが、これ以後増加する傾向が見える。淳和上皇の遺詔がその後の先例となるのを回避しようとする「陵墓重視」の感覚が山稜の祟りの説明を容易に受け入れたのか?
・「濫穢、荒穢」
p145:神と関係のない局面では穢は問題にならない。この点は、破ると当人に害がある陰陽道系の物忌みと異なる。
・「非人長吏連署起請文」建冶元年(1275)8月13日(金剛仏子叡尊感身学正記):古代律令条文によってらい者の放逐を否定し、逆に中世では家に居住するらい者を過少に考えたために古代と中世のコントラストが大きくなったが、古代と中世の「らい者」の違いは集団化の有無と仏教的「業罰」観の有無。
p157:貧人→非人:古代に「貧人」とされた者の集団化に伴い、仏教の影響で「非人」の呼称が与えられた。
p158:非人は「キヨメ」という職能、門前の乞食として古代から寺院と結びついているが、当初「平安京内には寺院は存在しなかった」ので、非人の集任地が洛外にあったのはこれを組織した清水寺祇園感神院の所在地によると見る事も出来る。

p192:中世以前の火葬は夜から行い長時間かかったので、「翌朝」に拾骨した。中世後期からは「三日後」になる。「拾骨=灰寄せ」
p214:「五三味=二十五三味」
p316:波平恵美子『異常死者の葬法と習俗』
死に場所に留まる霊:信州地方「弓箭死霊(戦死者)」の「キュウセン」が→「急仙山神、旧先山神」
中国地方の変死者霊は「ミサキ」と称し、刀傷で死ぬと「ツルギミサキ」、首吊り人を「ツナミサキ」と現場に祠を建てて祀る。祭神名としてはミサキのほか荒神・若宮が多い。
p318:石を積む:中国貴州省凱里県舟渓の苗族は異常死者を不吉祥とし、滑落死者は山、溺死者は川岸と現場に埋葬する。ロシア・カラパチア(現ウクライナ)では昔、自殺者は現場に埋め(放置か?)、通行人は石を投げた。中世フランスでは遺体請求のない死者、破門された死者は埋葬されず石で掩われたまま腐敗した。フリードリッヒ2世の庶子マンフレーディは1266年ベネベェントで破門されたまま戦死したので、兵士らが遺体に投げた石が積み重なって石塚になった。
p325:墓所の法理:笠松宏至は日本中世の「墓所の法理」を研究し、殺人事件の被害者が居住していた地の領主が、他領に居住する犯人の跡職を墓所として要求する「跡型墓所」と、殺害現場を墓所として要求する「現場型墓所」とを区別して、このうち「跡型墓所」は、犯人の所領はその犯罪を検断した者の手中に帰する原則に対抗して鎌倉中期にまでに形成されたより原初的なもので、「現場型墓所」はその法理を主張する場合の障害を回避するために後次的形成されたものとした。
p326:「流れ灌頂」は古くは変死者一般に行われた。産死者、溺死者
p330:中国では縊死者・溺死者は特に別人を同様な死に引き込むことで亡霊の身分から抜けようとすると考えられ、これを「鬼求代」と云った。志摩の海女は手拭に清明九字(☆形)と四縦五横の紋を縫い付けるが、これは海中に「友に引かれないため」。河童(水鬼)の「尻子玉(肛門)を抜く」は溺死させる。産死・特に懐妊中死んだ胎児が腹に残る女性は浮かばれぬと胎児を取り出す民俗は中国南北朝宋代『異苑』巻八三十四話にも見える。
・江戸のエクソシストで著名な下総飯沼弘経寺の祐天上人の霊験譚『死霊解脱物語聞書』
p333:妊婦が死んだ場合の腐敗過程でガスの圧力で胎児が排出されることは実際にある。(P・バーバー、野村美紀子訳『バァンパイアと屍体ー死と埋葬のフォークロアー』第14章288〜289頁)
P334:異常死者の葬法儀礼が一般の葬法儀礼に取り入れられた場合:
・石積みで死霊を封じる呪法が一般墳墓に
・棺に仮門をくぐらせる。
・葬儀の帰りに振り向かない 等

*要再読