葬と供養

702年 大宝律令25:喪葬令:役人の葬祭に関する規定:二位以下の墓石禁止
1831年天保2年)4月 墓石制限令:幕府は寺社奉行松平信順、堀親宝に命じて、百姓町人の院号、居士号禁止、墓石の大きさも台石ともに四尺に制限した。

メインテーマに殯(もがり)があったのが自分には珍しくタイムリー、冗長だが気にならない。
ユーズドで¥85,000である。大学の図書館では大概本棚には載って居ないので、盗まれている模様。
・かりもん(仮門):殯(もがり)の門が転訛した「もがりもん」→「かりもん」が正しい。

P11:合理主義に基づいた大化改新や土地制度が発令されても民間の慣習法は抵抗、庶民には禁止された殯は喪殯や閉屋として「日本霊異記」に登場する。
P13:「日本書紀天皇記各世代の「崩」と「葬」の間の期間は「殯」と見て良く、崩の後に殯がなければ葬してはならないという観念が存在した。
P14:「天岩戸」は天照大神がお隠れになった「殯」
P32:一喝が挙哀の仏教化である。
P36:「姥捨山」は山地風葬の残存説話
P37:風葬、遺棄葬は「ほふり」(放り)といわれたので記紀万葉集で葬を「はふり」と読ませた。墓は「奥(沖)津棄戸(つすたへ)」
P42:民俗学的聞書資料はあくまで「現在資料」であり、過去の資料、遺物、絵画との照合考証を経て歴史的資料になる。村の古老から聞いた(から正しい)では幼稚に過ぎる。
P49:令集解の「禰義(ねぎ)刀を負い矛を持つ、余此(よし)酒食を捧げ刀を佩いて、供養する、唯禰義らの申す辞(ことば)は輒(たやすく)人に知らしめず」の禰義・余此は雄略天皇の代に「女は兵(わざもの)を負ひて供奉するに便ならず」と遊部は比自支和気(ひじきわけ)の系統から円目王の男子系統に交代したことからそれ以前は「女」だったのが解る。
P50:俳優(わざをぎ)は仮面を被り刀・棒を振って足踏する呪術舞踊(鎮魂神楽)
P54:御大家の葬儀で「死導持」(死者の着物を寺に運ぶ役)を勤めた奉公人は生涯生活保障されたが「遊」の誤解から生じた民習慣。
P58:「持傾頭者(きさりもち)」は死者のお膳(枕飯)を運ぶ「余此」、ウカレメは遊行放浪の意で遊女では無い。
P85:霊魂は宗教の他にこれを受け取るものがない。しかも霊魂の存在は精神の実在と同じく確実なのであって、それ故にこそ宗教は存在している。霊魂不滅と霊魂実在無しに、久遠実成の仏が実在する筈が無い。
P91:大己貴神(おおなむち)が「百不足の八十隅(やそくまで)に隠去れましぬ」と八重の柴垣の奥に葬られた八重青柴垣の構造を今に残すのは「石清水八幡宮の青山」
P122:八角円堂:原始住居である円錐形竪穴住居がモンドリ型殯となり、仏教建築になったときに八角円堂となったと推定
P127:死者の居た座敷の床板を外して土間とし「土殿」とあるのは、本来は墓側の「土屋」で忌籠もったのである。
P132:竹の先に髑髏が刺されて竹の生長と共に手の届かぬ高さまで上げられるのは、風葬地では良く見られた光景。(「霊異記下巻第27話」、歌謡『通小町』)
P155:猫塚は「根子」(始祖墓)として崇拝したものと思われる。
P164:P・サティーヴ等の「あてにならない学問」との解釈でフランス民俗学は衰退した。『続仏教と民俗』
P169:四本旗:先旗(2本)、後旗(2本)、祖形は「矛四矛」
P172:『過去現在因果経』(巻3)
P176:『天狗草紙』(伝三井寺巻・中村家本)一遍上人踊念仏の図に自然居士と3人の放下の書き入れ
P178:雷光朝露:安居院『神道集』はもっぱら仏教の唱導書、南北朝の年号が見られるが本文の大部分は鎌倉中期のもの
p182:密教法華経・念仏も民間信仰の中では鎮魂呪術として受容され、滅罪儀礼として葬送・祈祷・年中行事の中に溶け込んだ。天蓋は修験道儀礼山伏神楽で滅罪の働きをし、罪と穢れを除いて神と一体化して、仏そのものになる即身成仏の儀礼である。滅罪呪術として水を浴びる行為の禊を灌頂と呼び替え、紙・布で埃を掃う所作が罪穢を祓う呪術となる。
p186:龍頭(たつがしら)は「魂入袋」:龍=霊で龍が死して間もない荒魂の象徴、八岐大蛇も人身御供を要求する荒魂、鎮魂と滅罪の供養の後に「恩寵的な龍=和魂」ともなる。仏教儀礼の「竜頭竿」と龍頭は全く別物だったが混同されて袋の部分を失い、龍頭に天蓋を吊ったり幡を下げたりするようになったのであろう。
p191:早川孝太郎『花祭』の三河花祭にともなう「白山行事の白山」が再生の装置ではあるが「擬死再生儀礼」が行われていたのであって産屋説や真床覆衾説の必要は無い、「白山」の「しら」を沖縄・奄美大島から持ってこなくても修験道の白山で良い。
p194:菊理媛神(くくりひめ)は死者である「イザナミ」の代弁をした口寄巫女(くちよせみこ)
p196:物をハッキリと把握・規定せず、漠然と何れにもとれる様に暈して、聞くほうもそれで含蓄があると相槌を打つのが、従来の民俗学の体質であった。しかし、白山と天蓋(白蓋)を別物とすれば、白山は青山型殯を模して擬死再生の道場、天蓋はその下にいる者を滅罪する幡蓋、または灌頂幡の機能を果たすことが解る。白山行事は逆修儀礼で、浄土宗の「五重相伝」や融通念仏宗の「伝法」と同じく追善(送り五重、送り伝法)もした筈。
p204:死出の山・三途の川・賽の河原は日本人固有死後観・他界観からで仏教がこれに便乗したのは、平安期の偽書「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」を見れば解ることで、「死出、冥途、葬頭河(三途河)、別都頓宣寿(時鳥=ほととぎす)」などに説かれている。「幣の山」
p207:ダイノホコ=先祖の男根:塞神、岐神などの「辻の神」に道祖神と祖の字を当てたのは先祖の意。ー男根形(をはせがた)
P208:もがりが済んで荒魂が鎮魂浄化され和魂となれば「ヒモロギ」に移して清浄なる聖地、霊場、寺院(ラントーバ=檀徒墓)や詣墓にまつった。このヒモロギが「杖、イキツキ竹」となりやがては塔婆となる。
P212:イキツキ竹は明治期かその少し前に斎竹(イツキタケ)を「死者甦生または甦生待望」から息継ぎの竹として竹の節を抜いた可能性がある。この誤解は風葬の習俗が土葬・火葬後にも引き継がれ、滅罪浄化された霊をイツキまつる詣墓の依代として土葬墓(埋墓)の上に立てたことからおこった。
P218:蓑笠>番傘>洋傘
P221:死者の紙冠(三角の額紙)は忌中笠の変形
P226:大晦日の墓参りは『日本霊異記』上巻第12話「12月晦の夜に祖霊を拝むため幕屋に入る」、下巻27話「12月下旬正月の物を買わんが為に市に出て霊を助け、大晦日の夜、その霊の返礼で食物・財物を貰う」の2話ある。昔話の「笠地蔵」は後者、地蔵には祖霊信仰があり子孫の災いを防護する役割が六地蔵にも残る。塞の神道祖神)は明治期以前は祖霊のシンボルとして男根形だったのが多いので比丘形(コケシ)の地蔵に変形した。昔話『猿地蔵』
P230:鬼は死霊、死体から遊離する鬼を「魂」、遊離しない鬼を「魄」、「云」と「白」で二分した。死霊に笠を被せる儀礼と死霊は「穏」(おに=鬼)で姿が無いという霊魂観念が結合すると一寸法師、桃太郎の「隠れ笠(蓑)」という昔話の要素が成立する。
P234:民衆のやることは意味は解らないまでも嘘いつわりは無いもので、高僧が一つも書き残さなかった葬式を多くの僧侶が実行し寺院が墓地を管理する必然性が解る。花禰宜の元は山伏
P240:出雲阿国が編み笠で鉦打ち踊念仏すると名古屋山三の亡霊が引き寄せられる。
P247:忌明けの笠の餅、四十九の餅は死者の穢れと忌を移して、投げるか施す。忌の物を食べると不治の病が治る、願いが叶うとか、四十九の餅を7箇所から貰って食べると病気が治る、乞食・盗んだ物に特別の呪力を認める庶民信仰はある。
P252:四花、死花は四幣、死幣という方が適当で、神仏混淆というよりも、全く仏教とは関係ない。
P253:四花が「御幣」であった証拠には『葬送習俗語彙』にあるように美濃揖斐郡徳山村八丈島では、シカバナは白木の削り掛で、削り掛はアイヌのイナウと同様原始的な御幣である。
四花は「地取り」の幣(忌串)がミニチュア化したものだが、意味が忘れられ死者への恐怖が薄くなった段階での常識的解釈では造化のミニチュア化と説明される。禅宗では四花を雪柳、沙羅双樹の紙華とする牽強付会(けんきょうふかい=こじつけ)をする。
四花は結界の忌串だが、支配階級に大陸の陰陽道が入って、埋葬地を買地、占地する様になると土公(土地の神)から墓地を貰う、買うという考えに変わる。わが国の外来思想・宗教の受容の仕方は、固有習俗はそのままで、それに対する解釈や説明だけが、陰陽式や仏教式になる。これが日本人の文化変容の基本方式なのである。
四花に関わる「地取り、地買い麦、地買い銭、地代金」の伝承は仏教以前の少なくとも1500年以前を気が付かないで語っている。→大宰府宮ノ本遺跡「鉛板買地券」他1件など、日本では「墓誌」となっているが、大陸の後漢〜唐・宋の物は土地の売主を「土公、土伯」とした「証文」である。
p276:寺で行う(共同体行事の)施餓鬼会の方が家の盆(精霊供養)より古い、家の独立と共同体の崩壊で家の祭りが始る、家庭の盆棚は寺施餓鬼棚のミニチュアだったが、それも消えて多様化した。
P291:聖徳太子片岡山飢人説話:『聖徳太子伝暦』は擬死再生信仰の説話化で、中国的教養が極めて豊かな『日本書紀』の編者は「真人」は「し解」するという「道教・神仙」思想に会わせてこの(片岡山)説話を改変している。
P295:棺:甕棺>焼酎甕>棺桶(早桶)>「座棺」、丸から四角に移する。現在の「寝棺」は元は大陸由来の別物を上流・貴族階級が受容した物で、戦後日本人の「中流意識」で一般化した。
P300:大宝律令・喪葬令に葬具として「轜車・鐃・鼓・盾・金鉦・大角・幡」などをあげて身分により数を規定、「令集解」は「轜は謂ゆる葬屋なり。之を載する車なり。(中略)或は云ふ。轜は小屋形と云ふなり」と官人・貴族の棺は小屋型の上屋をかけて車に積んだ(この車の引き綱の変形が「善の綱」かも?)。このように貴族・上流階級の葬喪はその文化系統が庶民とは違うので理解しがたいものがあるので、葬墓史は律令・貴族の文献だけで実際の様子を伝えるのは難しい。庶民は多く輿に乗せて力者が担いだが、力者>陸尺>六尺かも?
「方相」=方相氏のことで陰陽師が扮した。
P306:棺と槨:大棺
P314:「放下」『七十一番職人歌合』、「ぼろぼろ」=墓露(ぼろ)、梵論師、虚無僧等の念仏聖『徒然草(百十五段)』
P322:鍬投げ:鉤形の木の枝(忌鍬、二股塔婆)に霊力があるとするのは世界普遍の原始信仰(フレーザー『金枝篇』)
P324:『続日本後記』承和7年5月8日条に鍬二百口、「鉤形の木の枝」を手向けたのが「木鍬」に変化した。別にあの世で耕せという意味で副葬したのでは無い。
P327:神武天皇紀の鋤持神(さひもち)からの連想で、頭部の曲がった棒状の物が「傾頭」で、木鋤(きさひ)が「きさり」と訛ったなら「持傾頭者」の正体が「葬具」持だったのが解る。
「鉤形の木の枝」>「鋤・鍬・鎌」>「龍頭」に
P337:霊の監視があればこそ、社会は堕落しなかったともいえる。仏檀が家庭教育の支柱だったのは霊魂は全てお見通しだからである。

・『遊部考』

P382:琉球の念仏者(にんぶっちゃ):僧侶より前に「極楽への経」をあげ、土願いして墓口を開けた後に僧侶の読経するのは、元は念仏者のみで葬送が行われ僧侶は後から参加した名残。
P394:たとえ、インド・中国で成立した「経論」に「霊魂不在」が書かれていても、それを日本人が支持することは無い。インド・中国は日本の宗教的宗主国では無い、日本の各宗祖師は日本独自の仏教を主張し、庶民と名も無い聖が日本仏教の基礎構造をを造ったからである。
P401:ミイラや遺骨に対する感情は欧州人と日本人では異なる。日本人は死者の肉体を穢れと感じ早期の消滅を願い、代りに肉体から遊離した霊魂を丁重にに祭り、崇拝する。「即身仏」信仰は一時の迷いである。
かつて日本では遺骨・遺髪も無しに霊魂だけを「忌明け詣」と云って霊場に送った。その時に霊魂の依代として杖(白紙の幣を代りに巻く)または握飯(藁包に入れる)を持った。遺骨を持つようになると杖が「傘・洋傘」に、握飯が「餓鬼の弁当」と呼ばれるようになる。
P408:土師氏の祖である「野見宿禰」と当麻寺(たいま)を氏寺とした当麻氏の祖である「蹶速」は葬墓当事者の交代、或は葬儀礼の変化を暗示している。
P414:中世欧州では死後の世界をこと細かく説明されたので、中世人は死を恐れなかった。
P418:墓地の入り口で棺を三昧聖に渡す時の金額によって「火葬・埋葬・風葬」が決まるのが「地獄の沙汰も金次第」
P446:「辻(ちまた)の神」は石棒の「賽の神」、「岐(くなど)の神」は杖で死者の荒魂が荒びすさび出るのを遮り防ぐ様に願った。
P451:法師陰陽師の道響祭の杖または幣束(「ぼんてん」でもい?)から「六道」が発生し、「六地蔵」に転換、一方で「六地蔵六面石幢」が普及し、両者結合で1本の竿の上に「六地蔵卒塔婆を載せた形」の「六地蔵卒塔婆型六道(六丁立ち)」が成立、最後に「六道蔵札」に成った。
P466:「六道十三仏の勧文」も天細女の顕神明憑談(かむかかり)と同じ「梓巫女」の死霊口寄せ
P476:35日に繰り上げても、死亡日が月の27日以後なら「三月がかり」になる。
P507:庶民は文字・知識を知らないから空・有・無・中道だのと観念の遊戯に浸る暇が無い。解脱より今日の物心両面の苦や昨日の死者のあの世の苦をどうしてやるかなどの切実な要求しかない。行基集団の聖たちは庶民のこうした心の飢に答えるのが菩薩道であり聖道だと考え、その悲苦の最大のものが死であるから、葬送を菩薩道実践の場と捉えた。
P518:仏教は最初期から出家僧の集団と在家仏教社会という二重構造を持っていた。釈迦の葬送をしたのは在家仏教者で、出家僧団(サンガ)は全く関与しなかったと「阿含」は伝えている。ストゥーパ(塔)崇拝の儀礼も在家仏教者が始めた。「阿含」は出家仏教の面のみを代表している。在家者の葬送関与が無かったら仏教が僅かの間にインド世界全域に拡大する筈がない。
P620:「壇」と「檀」:寺で仏像を載せる「仏壇」の役所は「須弥壇」で「位牌」を載せるべきでは無いのは当然であるが、各檀家にあるのは「仏檀」でこれを「仏壇」と書くのは広くに見られる誤り。
P621:野位牌は仏木の代わりが元で荒魂の依代、内位牌は半ば鎮魂化された依代、墓標を石塔に代えるのは普通三周忌で、十年忌で建てる家もあった。石塔は成仏してからのものだから都会の様に急がない。それまで戒名・俗名を刻まない自然石が「ホトケ石」と霊の依代となる。
山村では位牌が朽ちると自然石(フトン石・マクラ石・ホトケ石)のみが残り(石塔は最近のこと)これを貧困の為というより、死後の個性(個人性)を没却することが成仏と捉えたのである。また、両墓制の残った地方では埋墓が共同埋葬の場で人なり家なりが占有できず石塔は建てられない。フトン石・マクラ石・ホトケ石はやがて他人に転用される。
此の世も、墓地も「仮の宿」で霊魂は自由な仏神(ホトケ)となり山河を飛翔する(と思った)
P624:インド仏教・経典仏教からは位牌は発生しない:死者が灰身滅智(けしんめっち)した覚者になるなら、それは宇宙に遍満した実在で、一定の場所(位牌)も個性の表現(戒名)も不要である。ここで仏教の霊魂否定論が出来てしまう。
P627:欧州では日本の石地蔵がある同じ場所(路傍、村の出入口、十字路、三叉路、村の公有広場)に「十字架とマリア像」があるが、これはかつて男根女陰を象った「魔除け」の同祖神であったが残存していないだけである。
P635:武田信玄上杉謙信が逆修の入道で法名を得たのは「滅罪」と「寿命長遠」にあった。「寿命長遠」になり滅多に死ぬものではないと勇猛果敢に他所の農民の田畑を蹂躙した。農民の年貢で領内に壮大な禅宗寺院を建て、禅坊主を最高の待遇で迎えたのを真の信仰と曲解させた勧戒師がいたのである。
P653:女人禁制で功徳にあずかれない女性の為に女人逆修としての「布橋大灌頂」が工夫された。
P662:逆修の別名は「七分全得」、逆修碑文に良く見られる。
P666:奈良・京都・高野山の様な寺院の多い宗教都市にはいたるところから「小型一石五輪」が掘り出されるが、殆ど全てが逆修塔である。追修の建塔は極めて少ない。
P672:神楽はもがりや墓前で死霊鎮魂の為に踊ったのが始まり、葬墓と芸能は同じ分野である。
P702:親鸞でさえ念仏して急いで浄土に行く気は無いと云っている。
P705:聖職者が貴族化すると葬送は下級僧職に任せられた。今も南都諸大寺は葬式に関与しないのを誇りとするし、うちは祈願寺で滅罪寺ではありませんと自慢する坊主もいるが、その様な寺はもと真言宗天台宗の地方本寺で、信者檀家の葬式は門前の滅罪寺院に任せていた。しかし、戦後は浄土宗、時宗融通念仏宗などの浄土系寺院が檀家を分離して独立したため今は檀家が欲しい状況にあり、そこでは本寺の格式と大伽藍を持て余している。
p712:逆さ屏風:「山水や花鳥の図」は逆さにするが、念仏講などで用意した「十三仏屏風」ならば逆さにはしない。
・『南東古代の葬制』
P732:猫が死者を跨いだときに恐れたことは、死霊(荒魂)が猫に移り出て行くのを極めて警戒したのである。
「猫が死者を飛び越せば火車(カシャ)になる」という一般伝承は「古代的」な荒魂遊離の恐れと、「中世的」な仏教唱導が無反省に結合して、坊さん・物知りも訳が解らなくなった段階であることが解る。
P751:米は遊離魂を引き留める最上のの依代で立てる箸は「幡」が元、源は常盤木の枝か。枕飯は死霊に静かに留まって貰う「魂呼びの呪法」の一つで「鎮魂の御供」、この枕飯(早御供)を作る間に遊離魂を行かせて帰す無害な場所が、当初近くの霊場菩提寺の本堂(男)、庫裡(女)で音がする→熊野那智妙法山で無限の鐘が鳴る→最後に遊離魂の行き先が「善光寺」となる信仰と伝承に結集したのは「善光寺聖」の唱導によったのが解る。ただし、「御印文・お手判・お血脈」は配られても「棺の中」に葬られて遺物は出ない?
P754:『日本書紀』の「招魂・発哀・発哭・慟哭」は「魂呼ばい」ではなく中国儀礼の模倣。
P768:蘇生と鎮魂(タマフリとタマシズメ):折口信夫など「モガリ・魂呼ばい」を死者の蘇生の目的とする者は、死霊が災害・疫癘(えきれい)を成す「凶癘魂」である前提を認めない。
P777:死日と発喪日とに差がでるのは、日の吉凶を選んで発喪を遅らす慣習があった為、喪日の吉凶をいえば律に拠って処罰されることになっていたのだが、

P795:民間寺院の殆どの縁起が行基創建となっている。
「禰義と余此」は女性の名、禰宜(ねぎ)と嘉言(よしこと)を唱える意味のいずれか決めかねるが、女性の名がその役名に変化したと推定する。
P798:「殯」が廃止され失業した遊部の男は三昧聖・勧進聖から一般民間僧へ、女はイタコ・梓巫の様な口寄せ巫女から遊行女婦への道を歩んだ。
P828:布施は喪家の作善の檀波羅蜜
香奠は香花=樒(しきみ)、梵語のダクシナーの音写「達?(だっしん)」が「布施物」
P847:仏教葬の本来は布施をはじめ六波羅蜜の実践であることが多い。この布施が「施されない」で僧侶が独占することに問題がある。西日本の「粗供養」、花籠からの撒き銭、東日本の「香奠返し」も布施の意味が感じられる。葬儀に当たる人々の宗教心が弔いを尊い行為にも賤しい行為にもするのである。

香奠の内容を民俗学的報告を元に分析すると(倉田一郎、井之口章次)
(1)死者に対する香花の手向け
(2)死者の滅罪の為の布施、設斎(接待)
(3)葬を手伝う地域、講組の人々の食料
中でも最も比重が大きいのが(2)で村人(共同体)への布施・設斎(せっさい)であったが、「撒き銭、粗供養」に矮小化し、葬儀設営のための葬儀業者への謝礼に回されるようになった。
・「村香奠」の「一升、五合」は(3)の共同体の葬儀手伝いの為の食料
・親族・身内・知人の持ち寄る「義理」の「一斗、一俵香奠」が(2)の布施
・花、花輪代として別に包む金一封こそが(1)で本来の意味の香奠で、これは神葬祭の「玉串奉奠」の方に残った。
p857:無遮大会(むしゃだいえ):般闍干瑟(=五年大会)の訳で阿育王の始めた大布施会、『日本書紀持統天皇紀の天武帝の殯の14年12月19日に飛鳥五大寺で「無遮大会(かぎりなきおがみ)」を設け孤独者、高齢者への布施が行われた。
過去、貧困でも「義理」として親族が出す香奠の主目的は窮民・弱者・乞食への布施斎であったが、僧侶がこの宗教的意味を説明しなくなったので香奠の概念が不明になったのである。
p835:金銭が下品だから「お香」ですと供えるので、茶人が気取って香包から自分の香を出して焼香したりするのは誤解である。

P873:無遮大会の精神は知人、隣人(土人)、他人の制限無く施すことで、布施の功徳による死者の滅罪は絶大と信じたこと。昔はこれを喜んで受けに行く貧者が多数あった。また、「香奠返しを貪る輩」同じ香奠場に何度も来るのが解っていても制限したりしなかった。
終戦後の極端な欠乏時代には役場で当日葬式のある家を聞いては5軒、7軒と渡り粗供養を貰い集める人が居たと言う。
阿育王の般闍干瑟(パンチャ・ヴァールシカ)の模範というより、共同体葬の精神に根があり、天皇家も庶民も同じ心で行ったのである。この「施主」の意味が忘れらて喪主と云う様になった。
「お布施」の本来意義は死者のための滅罪である宗教的作善とともに社会的作善を行うことで、本義を再認識すべきである。
P878:土人(隣人であり葬の講組)は葬式全般の事務にあたり、喪主は全権委任して金は出すが口は出さない。喪主(施主)と近親者は哀悼と忌籠りに没頭・専念するのである。
P882:熊野那智山青岸渡寺は明治期以前は「如意輪堂」
・「善光寺縁起」
P898:中世の念仏狂言「朝比奈」の地獄破りをヒントに落語「御印文」
P903:霊供と饗供:
P906:葬に出現する霊魂を「死者霊」と「外精霊」の二種に分けるが、原初は葬・供養の対象となる霊は「荒魂」の1種のみ、鎮魂の葬儀儀礼陰陽道、仏教などの外来宗教の影響で霊魂観念が表面的に変化して2霊魂になる。この2霊魂は荒魂の一部が和魂化され恐怖が和らぎ、その代わりに他の一部に恐怖が集約され外来魂の餓鬼・御霊・怨霊・行疫神になる。この2段階の変化の残存は現在の葬墓体系に全て残って、伝承を混乱させている。現在は第3段階の変化にあたり、死者の荒魂を和魂化、恐怖の無い・恩寵・感謝の霊魂となっている。
P919:祭粢料
P924:加熱した(食える)は霊供、生(シトギ団子)は饗供
P929:「千切っては投げ、千切っては投げ」は手強い相手に対抗する原始的動作→イザナギが黄泉から遁走する時の挙動
P954:「葬喪ヲ一大事トスベキニアラズ」は覚如の言で親鸞の言葉とするのは誤解である。「モトモ停止スベシ」としたのは「葬喪ヲ一大事トス」ることで「葬喪」ではない、「信心無し」に葬喪儀礼だけを大事にするのを禁じたのである。
親鸞が死後は賀茂河に水葬せよと云っているのは、霊魂は浄土に往生できるのであるから遺骸を大事にするなということで、霊魂不在を表明した訳では無い。往生する当体としての霊魂の実在と不滅なしには往生という信心と教理は成立しない。
親鸞の葬式否定・霊魂否定は誤解によるものだが、覚如があえて親鸞からから継承した原始真宗教団の中には「世間浅近ノ無常講」のごとく葬喪儀礼を第一義とする念仏講・無常講の存在があったのは間違いない。これに類似した現象は「遊部」が行基集団、三昧聖・阿弥陀聖が空也集団、親鸞覚如の後で空也聖・善光寺聖が一遍教団とそれぞれ流入しただろう。
P958:フランソワ・マセ「天石屋戸神話・天若日子神話・天孫降臨神話の連環における天若日子神話解釈の可能性(愛媛大学教養部紀要・第17号・1984年)」
P980:美保神社の祭神は出雲風土記に出る御穂須々美命、「美穂」は海の聖火を指す「御火(みほ)」なので美保関は「御火の岬」、『古事記』古写本(真福寺本他の諸本)が「出雲乃御大乃御前(みほのみさき)」と「大」が「火」の誤写であるのを本居宣長古事記伝(巻12)』が気が付かなかった。
P981:仏前の「華足」と神道の「神饌」は葬の「御供=盛物」で一致する。
P990:「湯灌」の「ゆ」は潔斎の「斎(ゆ)」、「灌」はソソグではなく「灌頂」の「灌」、古代庶民仏教者(聖)が肉体の浄化を「湯」、霊魂の浄化を「灌」と造語した。
P1005:「斎灌頂(ゆかんじょう)」が無知な聖の「斎灌」から「湯灌」となった段階で水に湯を加えるようになった時代的先後を示している。「葬式は全ての順序を逆にするもの」と言うのは俗説である。
P1015:肉食妻帯は親鸞の発明では無い:真宗教団は初めから戒律に縛られない俗聖・毛坊主・念仏者から構成されていたので親鸞以前から肉食妻帯であった。『日本霊異記』の著者「景戒」も行基集団に属した俗聖で妻帯肉食。
この初期真宗教団の下部構造を成した念仏者で俗聖である道場主は「寺の住職に昇格」しても妻帯肉食を続けたのである。
P1033:日本の祖霊祭が盆・正月と2回あるように、西欧キリスト教圏でも11月1日の「万霊節・死者の日」と「5月祭」がある。11月1日の前夜祭が「ハローウィン」、5月1日の前夜祭が「ワルプルギスの夜
P1046:ケガレを「気枯れ」とするのは「オヤジギャグ」:「穢れ」を「気枯れ」ととり、気を回復すれば「ハレ」になるというが、死穢は死体を甦生させ生命力を回復させないと、ケガレが取れない。
P1068:親鸞が18年〜20年化導した関東捨てて帰路したのは没後の葬礼を肝要とする念仏者との断絶を意味する。この念仏者が異安心の烙印を捺されて残存するのが、秋山郷の黒駒太子像で引導葬礼をする「如来さま」の善知識や野間宏の『わが塔はそこに立つ』にある秘事法門の「専修正念会」(実在は「聖徳和讃会」)、東北地方の隠し念仏
P1079:死体から「し虫」を追い払うのが湯灌であり「呼気」
P1083:念仏者の系譜は空也系の「阿弥陀の聖」と二十五三昧講の中に発生した「善知識」