乗っ取られた聖書 (学術選書)

乗っ取られた聖書 (学術選書)

・1970年代のカイロ空港は野良ネコだらけだった。
イスラエルの考古学者マーゲン・ブロシはアレキサンドロス大王時代のエルサレムの人口を4800人、BC104-78年まで32000人とした。
・神の「名」に興味の無い者が大祭祀職に就くと神の名は忘れられたらしい?
・サラピス神はアピス+オシリス+ゼウス+ハデス+アスクレピオスの合成(習合)神
・神殿・聖所での奉げ物が落ち着く先は聖職者の胃袋、坊主は古今東西を問わず血色が良い(例え旱魃・飢饉であっても関係ない)
ギリシャ語の「ア」は否定辞なので、「ア・ポリティコイ」は「町の生活になじまない者たち」
・ローマ支配時代のアレキサンドリアユダヤ人が市民権を得られなかったのはサラピス神への跪拝拒否が理由か?
出エジプト記20章「おまえは、わたしの前に(私以外の)他の神々を持ってはならない」はヘブル語テクストに忠実だが、出エジプト記22章28節には「(異邦人の)神を罵ってはならない、おまえの民の指導者たちを呪ってはならない」と異なるメッセージがこめられている。エジプト人ギリシャ人を意識してのことである。
出エジプト記8章10節ではヘブル原文に「われわれの神、主のような神」とあるのを「主以外には他に」と「神」の語句を意識的に消して翻訳している。異邦人の神々に対して「敬意を払うふり」くらいはする「おとなのユダヤ人」もいたのである。
安息日は創世記では「神の創造行為とそれを終えた神の安息を覚える日」だが、出エジプト紀では「主が聖別して祝福した日」となる。
ユダヤ人同様に金曜日の日没を安息日の開始とするキリスト教1派の中には毎週末金曜日に早退してしまう奴がいる。しかし、ユダヤ人でも昔「地の民(アム・ハーレツ)」と呼ばれた連中は安息日を守りたくても守れなかった。
・「ドジョウ鍋」はダメだがは、自分で選別できる「寿司屋」にはユダヤ人を誘ってもよい。
ブーレーユダヤ共同体の長老会
・旧約とは「旧約聖書」と「旧約聖書続編」の2つから成る。続編はカトリックでは過去に「第二正典」と呼ばれていた13の文書。
・「アリステアスの書簡」の史実的錯誤:モーセ五書の翻訳総指揮者とされる「デーメートリオス」はプトレマイオス1世の下で図書館の役職にあったが、プトレマイオス2世下ではアレキサンドリアから追放されている。エルサレム側の翻訳プロジェクトの代表である「大祭司エレアザロス」は存在自体が確認できない。
翻訳の底本となるヘブル語テクストはエルサレムから72人の長老が携えてきたことになっているが、エルサレム神殿の所蔵は「門外不出」だろうから、この底本はアレキサンドリア市内の「祈りの家」か、若しくは「個人所有」の物であろう。
ヨセフスは「ユダヤ古代誌」13巻でアレキサンドリアに派遣された長老を「70人」としている。
P47:セレウコス朝アンティオコス1世(BC285-261)の御用学者でバビロニアマルドゥク神官ベーローソス(BC290)が著した「タ・バビュロニアカ=バビロニア史(全3巻)」で、洪水以前の10人王が統治した期間は「432000年」
プトレマイオス朝の御用学者ヘリオポリスの神官マネトーン(BC280)はラコーティス地区のサラピス神殿建立に貢献、こちらも3巻本の「タ・アイギュプッティアカ=エジプト史」を著してプトレマイオス2世に献呈したが、こちらの最初の王朝統治期間は「900年」、アブデラのヘカタイオスも「エジプト史」を書いているが、これは「哲学的ロマンス」
オリエント・エジプトの「どっちの歴史が古いか合戦」に張り合うユダヤ人著作がヨセフスの「ユダヤ古代誌=ユーダイケー・アルカイオロギア(ユダヤの古さ)」、「アピオーンへの反論」の原題も「ユダヤ民族の古さ」
・BC3世紀〜AC1世紀の(地中海)世界で最も著名なユダヤ人は「モーセ」、
1)好奇心からモーセを紹介した(異教の)著述家:アブデラのヘカタイオス、ポセイドーニオス、ポンペイウス・トログス、ストラボーン、ポルフィロス
2)モーセに否定的価値判断をした著述家:ディオドーロス、クインティリアヌス、ユエナリスタキトゥス
3)明確な反ユダヤ主義の立場でモーセに言及した:マネトーン、リュシマコス、アピオーン、カイレーモン
ディオドーロスの「世界史40・3・8」にヘカタイオスのユダヤ人起源が紹介されている。
・70人訳はヘブル語の読解ができない2世、3世の為に、ユダヤ人共同体の要請で翻訳された訳ではなく、名も無い極少数のユダヤ人インテリの手により、ギリシャ人に対して書かれたモノ。
p73:「我々に似せて」の複数形は皇帝が自分を指すのに「予らは」と言う「威厳を示す複数形」とする説明もあるが、「多神教時代」の残滓であり、「出エジプト記」にも顕著である。
ヨハネ福音の作者は冒頭「始原にロゴスが存在した・・・」でこの複数形「我々」に「先在のイエス・キリスト」を想像し、彼=イエスを「我々=神々」の片割れとして見せた。
・オリエント学者によれば「創造の行為とは、混沌の中から秩序をもたらすことの中に成り立つものであって」、キリスト教者の言う神による「無からの創造」は本来的にはあり得ない。
・マソラ本と70人訳の差異はヘブル語テキストが「多数」あったと考えれば説明が容易である。
「神はこれを見て、良しとされた」ヘブル語→「神はそれを見た。美しかったからである」70人訳 ←”美しかった”ヘブル語テクストが存在したのである。
・旧約の異なる「2つの創造物語」に最初に気が付いたのはドイツの聖職者H・B・ビィッター、1711年に発表するも無視された。1753年ルイ15世の侍医ジャン・ダサウトリュックが「第一の創造物語」が紀元前6世紀末の「祭司資料」から、紀元前8世紀に作られた「第2の創造物語」よりも後に作られたとする見解を示した。
P96:ギリシャ人読者を想定して起こった「不一致箇所」が、「出エジプト記4章」と「民数紀12章」にある。いずれも「レプラ」の意図的な無視で、これはマネトーンの言説「モーセ=レプラ患者」から致し方ない。
P100:70人訳「出エジプト記38・18-20」は現存の「ヘブル語テキスト=マソラ本文」には無いが、この「余りに長い」言説が勝手に創造されたとは思えない。当時のヘブル語テキストには原文が存在したとするのが妥当である。
ギリシャ語訳とヘブル語テキストに見られる不一致は「モーセ五書」よりそれ以外の諸書では絶望的に多い。ヘレニズム時代にヘブル語テクストの「祖型」が存在したとする議論には説得力は無い。
・70人訳の完成度は低く、ユダヤ共同体の関与の痕跡は認められない、翻訳には個人的な原則・方針が随所に散見される。創世記や出エジプト記の大半は一人の個人プレーである。
・「創世記・出エジプト記」→「レビ紀・民数紀・申命記」→「預言者」→「諸書」と順に翻訳されたのは、前の翻訳から参照が多いので解る。
・「シラ書」の序言で遅くとも「預言者、諸書」の翻訳がBC132年からBC126年には終わっていたのが解る。
P110:アリステアスの書簡で翻訳に手を加える者は「呪われる」とされたのを、ヨセフスは「古代誌12巻」でこの語句を取り除いた。彼は「古代誌」編集のときに集めた「複数のギリシャ語訳」から「同一の翻訳」など存在しなかったのを看破したのである。
・ミレトスのアレキサンドロス・ポリュヒストールが70人訳を読んでいたのは例外
・ブーバスティス・アグリアの宗教共同体:イザヤの預言に飛びついたオニアス4世がプトレマイス6世から下賜された土地にエルサレム神殿を模した神殿を建てた。アレキサンドリアユダヤ人をライバル視したとすれば、「翻訳本の1生産地」だったかもしれない。
・マソラ本に属さないヘブル語テクストがクムランで見つかる。
・新約における旧約からの引用の「80%」はギリシャ語訳からで、詩篇イザヤ書出エジプト記申命記の順に多い。また、パウロの真正書簡の中で旧約からの引用が93箇所あるが、内訳はモーセ五書33、イザヤ25、詩篇19、パウロの研究者曰くこの内の51の引用は70人訳と一致し、4つはヘブル語テクストに一致、38の引用は70人訳・ヘブル語いずれにも一致しない。
・5人の長老達がプトレマイオス王の為に五書を翻訳してしまった。その日は金の牛が鋳造された日と同じく耐え難いものとなった。五書は正しく翻訳できないからである。(「マケセット・ソフェリーム」1・7)
・アキュラ訳:ヘブル語テクストに余りに忠実な為、ヘブル語の文章構成法とギリシャ語に堪能でないと理解できない「チンプンカンプン訳」。1896年カイロのシナゴーグのベン・エズラ会堂のゲニザ(=不要な聖書の捨て場所)でケンブリッジ大学のシェヒターにより中世写本が大量に発見される。
・「ヘクサプラ」にギリシャ語の「音記」があるのは、オリゲネスがヘブル語テキストの「読み」を後世に伝えようとしたのかも知れない。
・ティッシェンドルフ:彼が1859年に聖カタリナ修道院から写本を「無断で持ち去った」のは確実だが、彼は無教養な修道士から「写本を救った」ことになっている。
・シナイ写本、シリア写本、ヴァチカン写本のいずれも「マルコ福音の最後の12節」を欠いている。
・チャールズ・トムソン:
天地創造があったのはヘールズの計算では紀元前5411年、アッシャーによれば紀元前4004年