霊場の思想 (歴史文化ライブラリー)

霊場の思想 (歴史文化ライブラリー)

霊場の思想
・○○大師開基伝説:東北地方は円仁=慈覚大師、西には弘法大師が開基したとされる(由来の)お寺が多いが、裏付ける客観的な物的証拠は皆無である。しかし、立石寺=山寺で円仁が入定したことを日蓮は書き残した。『慈覚大師事』
p37:比叡山延暦寺興福寺など南都(奈良)の伝統寺院に対して「北嶺」と呼ばれた。
役行者子角、越の大徳泰澄
孝謙天皇に仕えた道鏡はもと「看病禅師」
p62:ヤソ会子ガスパル・ビレラは「日本ではコンボダーシ(弘法大師)が地下に穴を掘って休息していると信じている」との報告がある。
p44:奈良時代には官寺の僧侶は寺内で学問専念で、寺外での民間布教は禁止されていた。「僧尼令」枠外の僧を「私度」と区別した。
p99:1007年に十禅師慈蓮が聖徳太子の朱印付きの未来記『四天王寺御朱印縁起』を発見すると左前だった天王寺は皇族・貴族の参内を得て急速に寺勢を持ち直した。
p107:法隆寺での聖徳太子崇敬の拠り所は東院夢殿の救世観音だったのが精霊院が創建されると俗形の太子像がこれに変わり、救世観音像は秘仏化されて人目から隠された。
p102:海岸線が近い昔の四天王寺の西門からは西方浄土を目指しての入水自殺が絶えなかった。
p140:大官大寺元興寺 負け組み官寺
p146:上行寺、江ノ島、竜ノ口は納骨(散骨)の地