神仏習合
日本の神祇信仰は八百万の「自然神」から祖先・氏神産土神)の「人格神」に移行した後も多神教で、超自然の力を借りて目的・願望を成就せんとする呪術をその柱とし、呪術の根幹をなす祈祷は「現世的祈願」である。素朴な心・正直な心に基づく信仰であり、そこには深遠な理論・教義は無かった。
仏教伝来初期も教義内容ではなく外面から受け入れた。従来固有の神と同じ扱いで仏と対峙した。仏教を呪術的・現世祈願的に信仰した。
従来、神は必要な時に降臨を仰いだが人里に社殿を造り神の常住を求める様になるのは仏教寺院の影響である。始めは自然神を祀っていたが人格神も共に祀るようになるとしだいに人格神の比重が大きくなるにつれ祖先崇拝を根幹とする氏神信仰と「神社」が出現した。
神宮寺出現:神は仏法を悦びたまう。仏教の神祇信仰への寄生。「日本霊異紀・上・第七縁」にある創建時期662〜671年の「三谷寺」が記事を史実とするなら最初の「神宮寺」である可能性もないことはないが、「藤原武智磨伝」にある創建715年の越前「気比神宮寺」が最初か?、とにかく地方から出現し始めたのは間違いない。
多度神宮寺の創建事情:「われは多度神である。宿世の罪業により、神として存在(苦悩)している。神としての身を離れるために仏に帰依したいと思う。」とあり、神の苦悩を救う仏力は山岳修行者(沙弥・優婆塞・禅師)の呪法である。
神託:神の苦悩の告白→苦悩からの救済に仏力を借りる→神威は増して地域の願いに応じられる→我(神)の為に寺を建て、経を読め(神前読経)。
本地垂迹説←習合理論化、仏が主導権、権現思想、仏が神に菩薩号を奉じる。
勧進聖と唱導:勧進で得た資金の剰余は大勧進聖人の所得となる。歴史的事実のいかんを問わず、寺社・勧進に利益のあることであれば、虚構・曲解・粉飾もあえて行う「縁起づくり」が行われた。
神本仏迹説→反本地垂迹説、神仏逆転、伊勢神道
伊勢神道=伊勢外宮の神官(禰宜の地位)度会(わたらい)氏の度会家行(1256〜1362)によって大成された。実は1277.9〜1280.6の元寇時期と一致する時期に成立。神の優位を説くが明治の神仏分離(廃仏)まで(一般民衆には、または読み間違い?)普及には至らない。
*行事中の神仏融合
神棚と仏壇:神棚は今日では出居・座敷に祀るが、本来は生活の中心である囲炉裏の間に在った。仏壇は仏の祭壇であるが、この仏とは家の先祖のことであり、見かけは仏菩薩でも先祖が菩薩の姿で出現している。仏教信仰とは無縁である。仏壇が創設されるのは、家が始めて葬式を出した時で、仏壇には仏像は無く、位牌(白木の野位牌=死霊の依代)のみ祀る。仏像の有無はではなく位牌を「依代」として先祖を祀るのが仏壇成立の条件なのである。古い家ほど位牌は増える。長い期間を経て古い位牌(死霊)が統合・融合聖化され「祖霊」が成立し仏像の形をとる。位牌は死霊、仏像は祖霊のそれぞれの依代となる。仏壇中の仏像は同族神が仏の姿で家中に「垂迹」している。
元来、死霊・祖霊は神(祖霊神)として祀ったが、仏教受容後に死霊・祖霊の扱いは仏教の表層に吸収された。
常緑樹の塔婆:33年忌や50年忌の法要を「とむらいあげ・といきり・といどめ・といあげ」とし以後の法要を打ち切り、杉・檜などの常緑樹の皮付き丸太の一面を削り、そこに戒名を書いて墓に立てる風習が今日でも僻遠の山村・漁村に稀にある。これは最終年忌にこれまで仏であったものが神=地神となるとする考えで、この時を境に位牌を川に流したり、寺に納めたりする。仏教の影響から神の祭りは仏の供養になり、神霊降臨の依代は常緑樹や石の自然物から位牌、仏像になった後に、再び自然物(=塔婆)に戻る。仏が最終形態ではなく仮の姿として捉えていたことが伺える。

自然神、精霊信仰
氏神産土神→人格神→氏族仏教→国家仏教成立、神社出現
神仏習合の発生→神宮寺出現、神前読経
宇佐八幡神の上京、鎮守の出現、神に菩薩号、本地垂迹
神国思想・神道論、反本地垂迹

日本列島の住民は古来の精霊・祖霊を祀る信仰に大陸仏教の表層を加味した「神仏習合教=日本独自仏教」と云うべき「単一宗教」を飛鳥時代から明治期までの約1300年間一貫して継続してきた。寺院・神社は不可分で実際区別は無かった。(*1)
現代日本人一般の寺社に対する宗教感(特に「神道」)は「神仏分離」以後の虚構である。
しかし、習合は大衆的には未来永劫ひろがり続ける。習合こそは日本庶民の「心」である。


(*1)神仏習合
今日では、神様は神社、仏様は寺院と、はっきり区別されているが、明治維新までは神仏混淆で、その区別が必ずしも明確でないことが多かった。
 仏教が国教化された奈良時代から、神と仏は一心同体と考えられ、たとえば、仏教の菩薩号を神名につけて八幡大菩薩と唱え、神仏の融合調和をはかった。これが、神仏習合思想であるが、また神は本地である仏が、この国に垂迹身(迹を垂れた身)として降臨したものと考え、これを本地垂迹説といった。
 仏が権に現われたということから、権現の語が生れ、春日権現などといわれた。このため、神社を仏・菩薩がお護りするという意味で、神社の境内に神宮寺や本地堂が建てられた。
 神宮寺や本地堂を預って仏事を修する僧侶のことを、社僧といった。また社僧は宮僧・供僧・神僧などとも呼ばれ、なかで最も多くかつ古くから存在した職は別当である。別当とは本宮ではなくして別に諸職に当たるという意味で、これに大別当・少別当・権別当・修理別当・留守別当およじ別当代などがあり、著名なのは、熊野三山熊野別当である。鶴岡八幡宮別当であった公暁が、将軍実朝を暗殺したことも史上で知られている。
 別当の上にあった職が検校で、監督の意味である。熊野検校のほか、石清水八幡宮や宇都宮二荒山神社野検校が知られる。宇都宮検校職は、宇都宮氏であり、のちに幕府御家人となり、戦国時代まで勢力を有したことは有名である。
 神宮寺や本地堂は、明治維新神仏分離令により、おおむね明治四年頃までの間に神社から分離され、もしくは廃絶せしめられた。従って、今日存在する神宮寺は、歴史的な由緒を伝えるだけで、神宮寺としての実はなくなっている。また、社僧は多くは還俗して神職となったが、それに従わなかったものは廃職追放された。今日の神職のうちには、還俗した社僧の子孫も少なくない。
hizensaikou 『戒名の意義をもっともらしく説き、姓名判断なみにその良し悪しを言う人もいます。 戒名というものは、本来仏教に入信して、仏教徒として仏教の戒律や教えを守って日々生活を致しますと言う誓いだての、授戒の儀式を受けた時に授戒の師から頂く名前のことです。

本来死者に付ける名前でなく生前に頂くべき名前なのです。ところが、死者に戒名をつけるのは、不幸にして仏縁になく、受戒の機会に恵まれずに亡くなり、いよいよ仏式で弔う段になって、せめて故人に形だけでも仏門に帰依させ、戒律を授けて仏教徒として仏の導きを頂こうと言うことから、戒名が付けられ追贈されるようになったものです。これは故人の信心や意思に関係なく、また仏教に関心があろうとなかろうと、あたかも欠席裁判のように、死ねば当然の如く仏戒を申し渡し、戒名を付け、仏教徒に仕立て葬ってしまうのが、一般の仏式葬法なのです。

本来的には戒名を付けないと故人が往生できないとか、亡霊になって幽界をさ迷うということではないのです。 いい戒名で故人の徳が高まるとか、立派な戒名を付けてもらったから、極楽往生が約束されるというわけではありません。

戒名の良し悪しや、戒名の字数ではなく、人として正しく生き、悪業を行わず善行を積み立派な人生を送り、御仏に護られ、導かれるに値する生前の精進こそ大切なようです。その集約において戒名は付けられるべきなのです。』(2006/05/31 01:30)


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