イエスという男 第二版 増補改訂
1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスの書物の中には20数人の異なったイェホシュアが登場する。
「下請け取税人=レビ」と「取税人の頭=ザアカイ」を同様に扱わないのは「税務署の非常勤職員(低賃金アルバイト)」と「税務署長」とを同一視しないのと同様である。
マタイ21・31:取税人と売春婦が(律法学者より先に)神の国に入る(と私は宣言する)。
マルコ6・3:漁と湖上の舟行に詳しいので農具、漁具を造る建具大工のガリラヤ人。
イェホシュアの生前に熱心党は存在しないので、かつての弟子であるシモンが後に熱心党に参加したなら理解できる。しかし、言語は「熱心な」という形容詞らしい。
12弟子の「12」は確実に虚構である。
マルコ(8・3)はイェホシュア=メシアとする会派を容認できなかった。
「18のハラコートの事件」からパリサイ派の2大勢力の支持母体が
ラビ・ヒレル派=貿易・商業の利益者(商業ブルジョワ)代表
ラビ・シャンマイ派=大土地所有者(農業ブルジョワ)の権益代表、民族主義を支援
であることが予想される。
18のハラコート事件:12の食物(異邦人の生産品)と異邦人言語(商用ギリシャ語)の利用禁止をパリサイ派の公式見解とするかの議場においてヒレルに対してシャンマイ(多数決では不利と見た?)が武闘で望み強行採決した。
マルコ12・13−17:カイサルのものはカイサルに、神のものは神に:”神殿税(や10分の1献納)は「神様=実は宗教貴族」の懐に入っているのを黙認しているのだから、人頭税を「ローマ皇帝」に取られることに文句を言うのは片手落ちというものだ。どっちだって気に入らない!”の意。
ルカ13・1:ピラトに殺されたガリラヤ人巡礼者とシロアム池の櫓が倒壊して下敷きになった18人のときも彼らの”悪行の報い=罪深い”だの言う奴がいたが”絶対にそうではない”の憤慨の意思表示。
マタイ5・39=右の頬を殴られたら左も殴らせろ
ルカ6・29=1方を殴られたら他方もむけろ
吉本隆明いわく”これは寛容ではなく、底意地の悪い忍従の表情である”
類似に”荷を「1里」担がされたら、もう1里余計に担げ”、”があり「1里行け」は行軍中の軍隊が住民を一時的に徴用するペルシャ語由来の地中海世界全域で通用した「軍隊用語」。殴る主人や兵隊に逆らって痛めつけられたり殺されるよりは忍従がマシ。
マルコ10・42=諸民族の支配者、権力者には決してなるな!むしろ「万人」の奴隷=下僕となれ!
第一コリントス7・21ー24:信仰を持てば救われるのだからこの世で奴隷のままでもよい←と主人=強者の立場からパウロは言ったが、イェホシュアは逆の下僕=弱者の視点からの発言した。
ルカ17・7・10:・・・そして帯をしめてきて←現在ならネクタイ着用。
マタイ18・23−34:主人に1万タラントの負債猶予を許される下僕はその国家予算的な負債規模から「王、皇帝」のことを指している。帝國の支配者といえどもその金は借り物にすぎないの意。
マタイ24・45、ルカ12・42=・・・主人が思わぬ時に帰ってきて・・・:初期キリスト教徒で終末を疑う者に救世主再臨は遅延しているだけだと緊張感を維持するために使用した句。
ルカ12・13=誰が私を裁判官や遺産分配の調停人としたのか:かれが相当の知識レベルであったのに律法学者として振舞う気が無かった証拠。
マタイ23・4、ルカ11.46、Q=律法学者は、重い荷物(汚れに関する生活規範)をいろいろ束ね、他人の肩にのせるが、自分では指1本動かして触れる事もせぬ:律法学者の定める生活規範は汚れに直に触れる労働者の日常において不便極まりない足枷を増やしたが、律法学者は汚れた労働に従事することはまずない。自分たちには無縁な規則をセッセと作る「戒律馬鹿」だとの指摘で「偽善者」とは言っていない。
律法学者の中でもヒレルとシャンマイでは支持者層の影響で見解の相違がでる。
シャンマイ→収穫の際に潰れたオリーブから出る「汁」は汚れていない。
ヒレル→収穫の際に潰れた葡萄から出る汁は汚れていない。
マルコ7・3−4・・・ユダヤの連中は手を洗わなければ食べない・・・:「ユダヤの連中(狭義のユダヤ人なのでガリラヤ、サマリアは除く)」の中で手を洗うは祭司階級が特定の儀式のときのみで、日常の食事で一々洗う戒律・義務は無かったが在家・世俗の集団であるパリサイ人は義務の無い(余計な)戒律を好き好んで(適用範囲拡大して)実践した。ラビ・アキバは獄中で食事前に飲用水で手を思わず洗ってしまった。
マルコ7・15=外から人間を汚すものはない、中から出るものが人間を汚す:衛生概念と宗教が不可分である時代にこの発言は大胆過ぎて理解は得られなかった筈、なにしろ「唯物論」まであと1歩なんであるから。
マルコ2・23−28=安息日の刈入れ:律法学者から安息日労働に関する類似の論戦を度々挑まれて例外条件の説明が面倒になり半ば呆れて無条件に「安息日労働忌避」の破棄を宣言する。
マルコ13・1=・・・この神殿は破壊されて・・・:ステファノも共感し、そして死んだ。
マタイ11・19:洗礼者ヨハネと違い「大食いの酔っ払い」で好んで客として招かれた。
マルコ11・15:神殿税や献納物が神殿貴族に流れ込む経済機構の批判。
マタイ20・1−15=葡萄園の日雇い労働者の不平:この話に解説は不要だ。誰も好き好んでブラブラしていた訳ではない、働きたくても職が無かったのだから、1デナリ(生活費)が分け隔てなく分配されるのが望ましいと思わないか?「能力に応じて働き、必要に応じて消費する」ということだ。それが社会平等だ。(仲間の平等の実現を阻害するのは比較的有利な立場の同じ労働者。)
マルコ12・1−9=悪しき農夫の譬:農民一揆の事実
マタイ25・14−30、ルカ19・11−27=タラントの譬:委託資産が巨額なので「御主人」はローマ皇帝、「奴隷」は属州の長クラスの譬で「資本主義」で動く社会構造を説明しているのだ。運用益を無かった奴隷は「富を生み出したのは労働者だ、それなのに御主人様は蒔いたことも無いところから摘み取る」と抗議して追い出された。←1982年「十字架上の悪魔」グギ・ワ・ジオンゴ著(ケニア
ルカ16・1−8=不正な執事:大土地所有者の財産など所詮は不正なマモンなのだから「ばらまいた」からなんだというのだ!という社会秩序に対する疑念の表明。ー現代なら、消費者金融の従業員にでもなって借用証の金額を一桁削るなんて痛快だ。クビになるだの気にしない、逃げればよい、借金で苦しんでいる連中の友達になっていた方が職務に忠実なんて言われるより気持ちがよいぞ!社会的に抑圧者された者こそ神の国にはいれるのだから!ーというところか
マルコ3・28=人間にはいかなる罪であろうと赦される:これは明快、添加物不要。洗礼者ヨハネのように悔い改めの実を結べとか洗礼を受けろとか言わない。
ルカ7・28、マタイ11・11=女から産まれた者の中でヨハネより偉大な者はいない、しかし神の国で最も小さい者もヨハネよりは大きい(取税人、売春婦よりも格下):持上げている様で実は酷くバカにしている。
マタイ11・18=ヨハネが飲み食いしないと「悪霊」に憑かれているといい、人の子がするときは食い意地の張った酒飲みで取税人・罪人の同輩といわれる。
ルカ17・21=神の国はあなた達の中にある:「中」という前置詞の使用例でクセノフォンに「矢の中」とありこれは「矢のとどく範囲」、また「葡萄酒の蓄えが彼女の中にある」という用法は彼女の自由になるもののことである。つまり「精神的」とかでは無く「手の届く所」の意。
「人の子」は「1人の人」、「1人の人間である私は・・・」
ダビデ詩篇22、マルコ15・34=我が神、我が神、何ぞ我を見捨て給いし:断末魔の叫びはヘブライ語コレに嘘はない。普段アバ(オヤジ)なんて言ってたのに、死に際にダビデ詩篇が口から出る筈もなし。