ブルー・プラネット 撮影秘話
・5年間で200の海を廻った。
・カジキマグロ(オマケでイルカ・クジラが出てくる)のイワシ漁に遭遇するのに400日待った。
・深海底でヌタウナギに食われるコククジラカルフォルニア湾に浮遊していた死骸を漁師に頼んで現地沖に曳航して貰い、錘を付けたり切り刻んだり銃撃したりでやっとのこと沈めた。

ディープ・ジャングル 第1話: ニューフロンティア
1862年、花弁から蜜腺まで長い管を持つ蘭を見たダーウィンがその存在を予告した口吻30cmの蛾
・キモモマイコドリ
・トビトカゲ

踊り念仏 (平凡社選書)

踊り念仏 (平凡社選書)

28:お国歌舞伎の成功は、亡霊はあの世で済度されるのでなく、現世の快楽で済度されるという思想である。陰惨な中世が終末を告げ、近世の夜明けにお国歌舞伎が迎えられたのである。
30:お国は出雲大社の巫女:「出雲国大社女神子、色々神歌又小歌等舞之間、阿茶丸召寄見了、」『言継卿記』天正16年2月16日、「そもそもこれは、いずもの国、大やしろ(社)へつかえ申しやにん(社人)にて候。それがしのむすめくに(国)と申みこ(神子)の候を、かぶきおどりと申しこと・・・」『国女歌舞伎絵詞』(京都大学本)
31:現在の善光寺大本願の尼上人が五摂家、江戸時代初期には熊野新宮本願妙心尼寺は六条家から尼僧が入った。六条家からは伊勢大神宮の本願、慶光院の尼上人だった(家光の側室になる)お万の方がいる。
33:美女が男装で大刀・大脇差に金襴の大巾着・蒔絵印籠・金瓢箪を腰に下げ、首に角稜数珠(いらたかのじゅず)をかけて編笠をかぶるという思い切った異相をし、茶屋の女と戯れて華麗な惣踊をするのがカブキ踊。対してヤヤコ踊りは、白拍子舞が少女の小町踊に転じた小歌踊であったわけである。踊念仏は実はこの小歌踊であったのであるが、地獄語りと寺社縁起の因縁舞をする女曲舞も、このころは小歌踊化していたものといえる。
36:ゆるいテンポの歌念仏で霊を呼び出し、これが憑けば狂った様に踊るのである。『国女歌舞伎絵詞』
37:お国は神事神楽の神子ではなくて、大念仏を興行しては歌念仏で踊念仏をしたり、女曲舞で出雲大社の縁起を語って、大社造営の勧進をする「勧進巫女」で本願所属の比丘尼とまではいえないが、熊野比丘尼に近い職能を持っていた。しかし、中世も終わりになると、大念仏興行では集客できないことが明らかになって歌舞伎踊を案出、踊念仏と併せて新しい趣向をこらした演出が大成功をもたらした。
41:西行も治承4年から文治2年まで、伊勢の「二見の浦の山寺」(天覚寺)に住んだのは勧進の為。
42:盆踊系の民謡はテンポの遅早にかかわらず全て踊念仏系であって、オハラ節・ヤッサ節・ハンヤ節などは六斎念仏の「阪東」の曲調に起源を持つ。
42:中世で勧進の実をあげるには踊念仏を伴う大念仏が最も効果的だった。伊勢「間の山念仏」の歌念仏、一遍上人が諸国の一ノ宮・霊社に招かれて踊念仏したのもそれが故である。現在でも出雲では須佐神社踊念仏伊万里市山代の青幡神社の山代大念仏、讃岐の滝宮天満宮踊念仏、土佐朝倉神社の南無手踊、紀州御坊市小竹(しの)八幡宮のけほん(毛坊主)踊が知られている。
山形県長井市伊左沢神社の念仏踊は、神社に念仏踊はおかしいと考えて、平和踊とか昭和踊・豊年踊などと名を変えて、今は大和踊と公称してはいるが、一般には「伊左沢の念仏踊」で通っている。
45:太鼓踊や花笠踊に「シンボウ・新発意・願念坊・道心坊・願人坊」という道化役のコンダクターは、踊念仏の伝播者である半僧半俗の勧進聖の姿。
47:元来、念仏とは唱えるのではなくて詠うもの:踊念仏は歌念仏に合せて踊るもの。歌念仏のもとは、念仏だけに節を付けてうたう「詠唱念仏」。
50:お国歌舞伎も「うたう念仏」の舞踊化と演劇化であったといえる。
”民間の伝承や百姓の念仏は、蚯蚓の戯言位にしか思わなかった時代が、余にも長すぎた。時代の変化に敏感で変心と憂身をやつしたインテリと、職業的宗教家が捨てて顧なかったものを、無知な百姓は馬鹿の一つ覚えの譬のとおり、頑固に抱いてきたのである。”
53:融通念仏は「うたう念仏」:融通念仏はこの名を冠した一宗があるので教理をもった教団と思われていた。教科書では平安末期の良忍が開いた鎌倉仏教のはしりの如く書かれているが、これは全くの誤りで、融通念仏宗は平野大念仏寺の融観大通が元禄元年(1688年)に幕府に一宗取立てを願い出た、実に江戸時代にできた宗派で融通念仏そのものは何も伝えていない。
融通念仏宗には華厳教理をもとにした『融通円門章』のような教理がある。しかし、宗祖の良忍は学問を捨てて比叡山から大原に隠れ、念仏と法華経の信仰に生きた聖である。これは『語拾遺往生伝』、『三外往生記』の良忍(良仁)伝を見れば明らかで、鎌倉から室町初期の『融通念仏縁起』でも念仏勧進のほか、学問のことは見えない。
良忍は日本音楽史上極めて重要な位置を占める。仏教の声楽である声明の集大成者として、その名は不朽である。天台宗真言宗はもとより、仏教各宗の声明は全て良忍を中興の祖としている。『声明源流記』によれば奈良・平安に日本に伝わった声明の流派を全て暗練したという。唯一の例外は興福寺の内梵音で、日本の仏教声楽は良忍により日本化されたのである。
56:融通念仏:念仏を合唱することが全ての人の往生を確かにする方法。
この念仏大合唱のなかで演じられる為、科白が聞こえないのでパントマイムになったのが、壬生寺の融通仏狂言(乱行念仏)。
56:融通念仏は「同音念仏」や「専修念仏の曲」とも呼ばれた。”融通念仏の作曲者「良忍」の原曲を「蓮入房」が編曲した。”1295『野守鏡』
57:平安末期には全ての文化の日本化が流行であって、舞楽と声明の日本化と共に、声明や念仏の今様化が『極楽声楽』というものになって残った。
58:円覚十万上人道御:「嵯峨物狂いの能」、世阿弥『百万』
61:融通大念仏の弊害には、さすがの勧進聖の道御も考えて、持斎念仏を進めるようになる。これが六斎念仏のもとになった。
六斎念仏には2種あり:融通大念仏の踊念仏が残った「踊る念仏」と、一方が、融通念仏の伝統を受けた詠唱念仏の「うたう念仏」だが地味なので一般の関心を引けなかった。この両者が一村落に併存するところでは(若い)踊る方が「立念仏衆」、(中年以上)うたう方が「居念仏衆」。京都の六斎念仏講はこの二群から成り、詠う方は「鉦講」(かねこ)と呼ばれる。
63:自覚大師円仁が建立した常行堂常行三昧堂)が「山の念仏=うたう念仏」の発祥の地。
65:「法照流五会念仏」
69:良忍により日本化・平易化される以前の詠唱念仏は声明業を修めた専門の声明師でなければ不可能で、常行三昧念仏も専門家を必要とした。これが「堂僧」:融通念仏の作曲者良忍比叡山東塔の堂僧であるのは『語拾遺往生伝』、『三外往生記』で解かる。大正時代に公開された親鸞聖人の妻恵心尼の弘長3年(1263)2月10日付消息に
”殿(親鸞)のひへ(比叡)のやまにだうそう(堂僧)つとめておはしましける”
親鸞もまた堂僧であった。現在、東本願寺報恩講の御満座法要(11月28日親鸞命日法要)に「阪東節」という踊念仏がある。本願寺の教理教学が踊念仏を雑行雑修として退けても、宗祖の職能・出自までは切れなかった。踊念仏を宗祖が喜び給うという信仰がなければ、命日の重要な結願法要にこれを残す訳が無い。
・声明の専門者でなければ詠唱できない「山の念仏」を「良忍」が平易に作曲して融通念仏を作り、これをなお一層通俗化したのが「蓮入坊」、これに踊りがついて「融通大念仏」になったとき、その俗悪化を粛正して、真面目な「詠唱念仏」に回帰する運動が起る。その内の三人が壬生狂言の「道御」、干菜寺系の六斎念仏の「法如道空」と踊念仏の「一遍」
75:六斎念仏の「白舞」は日本の葬送行進曲:棺を墓地に運ぶ時に唱える。
76:六斎念仏は全てレクイエム(鎮魂曲):「四遍」が鎮魂曲、「白舞」が送魂曲、「阪東」が封魂曲
81:歓喜踊躍(ゆやく)念仏、焼香念仏=鉦敲念仏:貴人の葬式・中陰法要に依頼されて棺前・仏前で踊る。空也僧の村では明治大帝御大葬には宮中に招かれたときが描かれた「絵巻物」が保管されている。
85:「桶=覆槽」:”天の岩屋戸に覆槽(うけ)伏せて踏みとどろこし”と天鈿女命は魂を覆槽に封じて足踏で鎮めた。日本固有の打楽器といえば桶か樽。空也僧は瓢箪を鉢に使ったので鉢叩といわれる。宴会の丼鉢叩きはこれの遺伝か?
89:だだ:「足踏」は陰陽道修験道では「反閇」
93:空也僧は茶筅をつくり喫茶養生の風を広めた。
94:空也踊念仏に倣って、鉢や鉦を敲いて三昧(墓)を巡り、九品念仏の踊念仏をしたことから、各地に鉢叩や鉦打の村が出来た。
95:「やすらい花」は踊念仏:紫野御霊会といわれた古代の鎮花祭の一形式なので「やすらい花」の名が出た。「見る阿呆、見ぬ阿呆」はその意味内容が解からないからそう言われる。
98:折口信夫の「やすらへ、花よ」は国文学者らしくない誤り、『年中行事絵巻』(田中家本、第三巻)に
”三月十日、たかをてら(高尾寺)の法華会といふことをこなふ。・・・・さじき(桟敷)あるいへによびとめて、まわせみる。これを「やすらいはな」となづけたり”
とある。
102:「やすらい花」は10世紀には難波の海まで送り出したが、12世紀では紫野社(今宮神社)に封じ籠める。
105:帽額(もこう)の源流は、推古天皇20年(612)百済の人味摩之(みまし)が伝えた伎楽儛(舞)の「帽冠」(ほうこ)か?。天福元年(1233)『教訓抄』に伎楽の内容を知る唯一の記述があり、その行道に
”是を以って行道を為す。立つ次第は、先ず師子、次に踊物、次に笛吹、次に「帽冠」、次に打物”
とある。
111:融通念仏に踊や狂言が付いて融通大念仏:その狂言が融通大念仏狂言として記録に表れるのは1257年
116:賦算札は元は融通念仏のもの:”一遍は融通念仏から出発したので「うたう念仏」を心得ていたが、「踊る念仏」には抵抗を感じていたかもしれない。ところが信濃で民衆が楽しく踊るのを見て、これに同調せざるをえなかった。「賦算と踊念仏」は一遍の発明で時宗の特技のように考えるのは改めるべき”
117:招かれなくとも踊念仏というものは村内の市場・墓所・辻々で踊って、そこに浮遊する亡魂を鎮めてから、寺社や庄屋・領主の屋敷を廻り、饗応・布施を狙うのが常で、これが勧進なのである。そのため踊念仏には『庭ほめ、屋敷ほめ、柱ほめ』などの館を祝福する歌や和讃がついている。
120:空也僧の鉢叩が瓢箪に移行したのに対して、時宗の鉢叩は金敲=鉦敲に変った。
121:一遍が還俗中に刃傷沙汰を起した原因の三角関係の女性が「超一」で「超二」はその子。『絵詞伝』、『北条九代記
122:「すすき念仏」:
136:精霊棚は無縁仏(外精霊あるいは餓鬼)の為と謂われるが、本来ならばこちらが「新仏」の為の祭壇である。新仏はまだ穢れが多いので、家には入れてもらえないのである。
149:「ホロ」と呼ばれる役は「暮露=ボロ」:背負い籠に被せる幌からというのは俗説で、大念仏そのものを「暮露」が広め、団扇を背負う踊念仏は「放下」が伝播したからである。
183:伊勢・志摩の「かんこ踊」:”神の国踊念仏の国であってはならないと考える思想は、明治維新以後の国家神道から生まれたものであり、遡れば江戸時代の復古神道と、廃仏思想から生まれたものに過ぎない。今では常識化した神仏分離も、かつては庶民のあずかり知らぬ頭の上の嵐であった。その証拠にはどこの家でも、いまだに神棚と仏壇が仲良く同居している”
197:高田専修寺鎌倉時代には大念仏や踊念仏を布教の生命としていた。『本願寺文書』専修寺系図には「大念仏衆」が見える。これは、専修寺親鸞を開基としながら、実は二代目の真仏親鸞を招いたもので、その信仰形態は善光寺如来信仰であり、善光寺を中心にした融通大念仏の影響下にあった。
201:”念仏聖は、中世では暮露、放下、鉢叩あるいは聖と呼ばれ融通念仏や大念仏、六斎念仏や踊念仏を興行しながら、日本の隅々まで、念仏信仰と善光寺高野山・熊野などの縁起譚・霊験譚を運んだ。近世に入ると新発意・願人坊・泡斎坊・法界坊として芸人化し、カッポレ踊の梅坊主にまで及んでくると、やがて彼等は勧進と称する乞食と化して消滅したが、その崇高な念仏伝道の残像は、全国に残る風流念仏踊の中に、村人の扮する新発意や願人坊として残ったのである。”
210:自然居士は東山雲居寺(うんごじ)の「喝食」、喝食と新発意(しんぽち)は同じ、新発意の元は勧進聖:踊念仏は初め造寺造塔、造仏写経の作善に加わることを勧める説教と芸能が、戦乱・疫病・非業の死者の亡霊供養の大念仏となったとき、勧進聖はその勧進元として新発意化する。
223:”なにヤとやーれ なにヤとなされのう”は「かがい」:この歌詞をヘブライ語と解する人は柳田國男「清光館哀史」(『雪国の春』)を読んでいない。
226:祖霊の祭りに原始古代の乱婚を再現した?:”上略・・・ 率ひて をとめ男の 行き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻に 吾も交はらむ あが妻に 他(ひと)も言問へ この山を 領(うしは)く神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ ・・・下略”『万葉集』巻九・1759
242:六斎念仏は『空也上人絵詞伝』にあるように、戦前までなら葬式で踊られていた。
252:修験道踊念仏:棒振型踊念仏竹内流棒術
274:円覚上人道御:”清涼寺に於て地蔵院を建て、菩薩の尊像と太子の尊像を安置し、後に回国の志を発す”『法金剛院古今伝記』(花園の法金剛院 蔵)と遊行の勧進聖で、捨子から寺の小僧になり、回国の苦しみを嘗め尽くして辿り着いた庶民への愛情から、貧窮者を救い、牢獄の罪人にも救済の手をのべた。

人間はどこまで耐えられるのか

人間はどこまで耐えられるのか

12:J・B・S・ホールデンは4歳から父親の実験台になっていた。
23:テンジン・ノルゲイはエベレスト山頂にチョコレートとビスケットを埋め、神々に捧げた。
24:アンデス・アウカンキルチャ山の炭鉱町は標高5340M、硫黄鉱山の標高5800Mだが、鉱山で寝泊りするより毎日460M登る方が楽だという。
36:高度12200〜13700を超えると低酸素で意識を失う。18900M超えで血液が体温で「沸騰=気化」する。
41:4800M以上には順応できない。7900M超えは危険2、3時間の滞在が限度。
52:赤血球が増えると血液粘性が高くなるので危険、アスリートの高地トレーニングはあまり効果は無いという。
55:エベレストの冬期無酸素登頂に成功したのは1987年(シェルパの)アン・リタのみ。
65:サンゴのポリプは岩に着床すると神経系が萎える。
79:(作り話と思うが)テムズ河の地下トンネルの工事現場で現場昼食会を開催した。トンネル内は圧縮空気で満たされたのでシャンパンの詮を抜いても泡が出なかった。監督や招待客が地上に出て減圧されると彼等の「体の中」で飲んでシャンパンがパチパチと弾けだした。
81:正しい減圧方法:潜水は可能な限り「短時間で下降」、上昇するときは潜水した「深さの半分」までは一気に上昇して暫く待ってから、再び「残りの深さ半分」まで上昇と、これを繰返す。海面に近くなるにつれユックリと上昇しなければならない。
(圧力×体積= 一定なので、圧力が半分に減ると体積は2倍に増える)
「一定のペースで減圧すると・・・・最初は不必要な時間をかけ、最後は危険なほど急ぐことになる」J・B・S・ホールデン
82:潜水直後に飛行機に乗らない。
85:海難救助のときに心停止が起った:水から出て浮力が無くなると血液が上半身から足元に流れる。
94:サメはひっくり返ると沈む。オウムガイの本体は常に3,4ヶ月で新しく出来る隔室に居る。
・水辺のマイン(機雷)を地雷と訳したり、他に怪しいのがあるかも知れない?
101:圧縮空気では30Mが潜行限界
103:純酸素の呼吸は7気圧が限界、このときの酸素の味は「気の抜けたジンジャービール、砂糖を少し加えた薄いインク」
109:「ドナルドダック・ボイス」:軽い気体ほど声帯が早く振動する。
110:潜水限界:ヘリオックスで200から250M、トライミックスで450M
113:水中ではゴーグル越しに見るものは、空気中比の30%大きくなる。
114:かん体が全開になるのは20,30分かかるので、暗室で慣らしてからダイブするとより視界が開けるかも?
115:水中では音波が左右両耳に届く時間差が少ないので音の方向を判別し難くなる。
119:卵円孔(4人に1人)が開いている人はスキューバ不適かも?
124:酸素が分離される150年前にコルネルス・ファン・ドレベルはテムズ河を潜行した水中艇で「硝石」を燃やして艇内に酸素を満たした可能性がある。
133:41度でタンパク質が変性し回復できないほどに損傷しだす。43度越えで命の危険がある。50度を超えると数分で全身の細胞が死滅する。
136:1885年E・アーロンソンとJ・サックスは視床下部の中に「サーモスタット」を発見。
137:寒冷受容体は28度が最も敏感、人間はこの気温下で進化したのかもしれない。
139:ホタルコメツキムシ:
142:炭は木材より4倍程の絶縁性が高い:焼けた鉄板に上より、燃えている炭の方が「火渡り」するには都合が良い。
146:プリニウスは実際にサラマンダーを燃やして灰にしたのに、ファイアーサラマンダーは火を食べるという伝説を広めた。
155:レイヨウ類の「ワンダーネット」
157:「ナリオコトメ・ボーイ」の化石人骨は現代のアフリカ住人より手足が長い。
168:豪州大陸のヒキガエルには余裕があると膀胱に水分を溜めておき、水枯れの際は2、3年は生き延びる。アボリジニは緊急時にこれで水分を補給する。
187:1812年モスクワ撤退時のナポレオン軍オーギュスト・シリオン上級軍曹”氷点下28度で生きた馬のモモ肉を(食用に)大きく切り取ったが、この哀れな馬は数日は歩いていた。
191:褐色脂肪:
196:20度以下の水に浸かっていれば、いずれは低体温症で死ねる。
204:1982年フォークランド紛争で英軍負傷者の14%、1988年米軍のある部隊が11%が「塹壕足炎」に罹った。
209:1812年モスクワ撤退時のJ・L・エンケンス中尉”雪で体を擦って必死に温めた”
216:コウテイペンギンは一個体だけでは越冬できない:群れて体表面積を減らしている。外側で冷えると中に向かい中央に居たのと交替する。
230:呼吸はいくらでも可能だが、心臓が酸素を体組織に運ぶのが間に合わない。
238:1999年アトランタ五輪100M走でリンフォード・クリスティがスタート合図から0.08秒以内で反応して失格:音を予測したのではなく「閃光」に反応したかもしれない。
242:マラトン戦役でギリシャ全土に援軍を求めて走らせた伝令の一人フェイディッピデスは240キロ離れたスパルタまで2日で走破した。一説には彼が数日後マラトンからアテネまで走ったのがマラソン起源というのもあるが、彼はスパルタに留まり、マラソンを走ったのはエウクレス。
264:猟犬に追われたアカキツネが一日半で240キロ以上逃げ回った記録がある。
284:1983年9月ソユーズの打ち上げ事故で緊急脱出カプセルが上空1キロにまで放り出されたときに乗組員にかかったのが17G、上限は25Gとされている。
293:微重力状態で睡眠するときは自分の吐いた2酸化炭素が顔の周りで滞留するのに注意する。
294:地上では体表面の細菌は汗に混じって水滴として落ちるので危険は無いが、微重力状態では汗が
霧状になって(機内に)感染症が蔓延する。
295:質量とは、物体の運動に対する抵抗の大きさで、重量とは質量にかかる重力の大きさである。宇宙空間では、重量は無くなるが質量は残る。
300:三半規管は角加速度を感知するが、一定速度の回転には反応しない。
311:ボリビア・ラパスで暮らす住民は年間2マイクロシーベルト(mSv)の放射能を浴びる、コーンウオールの丘陵地では7mSv。
336:鉄酸化細菌(チオバチルス・フェロオキシダンス、別名チオバチルス・コンクリーチボランス=凝固性):硫黄含有が多い建物・構造物の腐食の原因となる。
345:バチルス・インフェルヌス:2倍に増えるのに数千年単位の時間がかかる。
347:メタン生成菌
352:1886年ターナーの話で、”アラスカ産ニシンを氷塊毎食べた犬が、生きた魚を吐き出した”がある。
358:1984年5月28日メルボルン産まれのゾーイ・レイランドが最初の凍結受精卵児。
358:ヒーラー細胞:ヘンリヘッタ・ラックスという子宮頚菅部癌の腫瘍から摘出された。
360:ケアリー・マリス:仰々しい演説と女友達がキワドイ姿勢でサーフィンをしているスライドを使っての講義(しばしば中断)が学会を憤慨させていた。
362:1996年8月、ALH84001(アランヒルズ84001隕石)