偽書『武功夜話』の研究 (新書y)

偽書『武功夜話』の研究 (新書y)

P49:「三河物語」が門外不出なのは「同僚への悪口」が書いてあるからで、「武功夜話」の”他見を禁ず”は都合の悪い相手には見せない口実。
P61:太田孫左衛門を「信長公記」の著者太田牛一と誤解してわざわざ「和泉守牛一」としている。
P64:読みやすく、予言的なセリフに満ちている。
P68:信長が当時なら常識離れした遅い時刻になって戦場に到着したのが桶狭間の勝因。
P69:信長は桶狭間の敵部隊が「新手」であるのを「疲れている」と判断を誤って強襲した。ここに「信長公記」の圧倒的なリアリティを感じる。
P85:異常に親切な「蜂須賀小六が前野小右衛門に宛てた」手紙:私信に年号は書かない。当時の私信は現代人には読みにくい筈であるが、現代風の平明な文章である。文書の書式上の約束事「書札礼」から悉く外れている。
P93:「てつはう」が「てっぽう」と判読音
P104:墨俣城は伊木家の城跡
P106:墨俣城は川を防衛線に使っていない?
P117:信長は外交で斉藤家を圧倒した。徹底的な攻城戦を行ったのは永禄8年9月の堂洞砦攻めぐらい。
P118:戦国大名は自前で戦うので損害は自己責任であるのが、損害を負担せずに国家に補填してもらう近現代の将軍たちとの決定的な違い。
P132:「甫庵太閤記」の著者は永禄9年が閏年で八月の次に「閏八月」があったのを知らない。『築城資料』所収の「小六の書状」と「墨俣築城記」によれば秀吉が小六に作戦を伝えたのが7月7日より前、8月22日に築城資材の準備を依頼、9月13日に柵の工事着手、15日に信長を城に迎えている。開始から着工まで80日、資材準備から資材結集まで50日かかっている。
P157:「城下の盟」(春秋左氏伝)が使われだすのは明治20年に作られた軍歌「日清談判」の影響。
P193:浄土真宗に僧兵は居ない。
P194:”そもそも高野山から分れてできた新義真言宗の本山である根来寺の衆徒が、浄土真宗の本山防衛のために馳せ参じたり、念仏を唱えたりして不思議な発想だが、資料的には、もちろんそのような事実は確認できない。”
↓思い出したが”高野山は中世随一の念仏の山”らしい!
”慶長11年(1606年)将軍の命で、四度加行(初歩的な僧侶の修行)と最略灌頂(簡易な真言宗の入信儀式)を受け、全ての高野聖時宗を改め真言に帰入した。”
P194:信長側に付いていた時期の「根来寺衆」と交戦している。
P252:主人公の前田長康の基本情報が「前田家所蔵文書、浅野家文書、太田家文書等」の他文書と食い違う。
P260:「武功夜話」「武功夜話拾遺」「前野家系図」各書は互いの整合性をとらないいい加減な編集態度である。両立しないことに疑問を持たないのは、単なる杜撰(ずさん)である。
P268:1980年NHKが「前野文書」の墨俣一夜城の記事・絵図を元に番組「歴柄の招待」を組む。小島廣次は「前野文書」の史料価値に疑問を示しているが、反論・反響は皆無だった。
・卑書悪書の典型で史料価値は皆無だが作家放送関係の支持はあり、真に受けた地方自治体もある。
遠藤周作「男の一生」「決戦の時」「反逆」、秋山駿「信長」
・NHK大河ドラマ「秀吉」堺屋太一、NHK大河ドラマ利家とまつ竹山洋
・『江南市史 本文編』1章4節「江南出身武将・前野長康江南市教育委員会:鈴木重喜氏担当