『新約聖書』の「たとえ」を解く (ちくま新書)

『新約聖書』の「たとえ」を解く (ちくま新書)

20:マルコ福音14節以下が3-8節のたとえ話の適切な意味・解釈ならばイエスは差別主義者。
30:史的イエスは「善」である(筈だ)から福音書が「悪」と考えるのは早計、史的イエスの人間平等主義では困るところがあるから敢えて変更する主張を福音記者は書いた。
32:「パラボレーであるたとえ話」
76:「ルカ10:30-37:サマリア人」は「25-29:律法学者の問い」、「38-42:マルタとマリア」を会わせて考慮すると「神への愛」と「隣人愛」の何れを優先するかの問いかけ:旅人が「被差別民」だとしてユダヤ人は助けることができない。律法・常識から明らかに隣人ではないサマリア人を隣人と答えた律法学者は「申命記6:4-5:シェマの祈り=全身全霊での神への愛」を唱えた直後に(誘導されて)「隣人愛」を選択して、「好きにしろ」と言われる。
「隣人愛」しか選べない者(マルタ)は「神への愛」を選んでいる者(マリア)からそれを取り上げてはならないとあるから、「神への愛」に忠実な「マリア」の立場は旅人を助けない「祭司・レビ人」と同じ、隣人愛を優先する「マルタ」はサマリア人を支持した「律法学者」と同じ。しかし、イエス自身は隣人愛を実践している。
141:「1-6節:安息日の癒し、7-14節:上席、16-24:宴会への招待」のこの食事の場面は「ファリサイ派指導者の1人」の家に招かれている。
232:「律法学者のように」=何々よれば・誰々が言った。「権威をもつ者のように」=他の権威に依存しない。
249:ヨハネ福音=イエスによってしか神に結び付けない、共観福音=イエスなしで神に結びつくことができる。