新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか

新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか

P15:正典の点数は「三・九、二十七」と憶える
P25:「律法」が公に権威あるものになったのは(ユダヤ人で)アケネメス朝ペルシャの官僚のエズラがこの文書集を作成・公布した紀元前398年のこと「ネヘミヤ記8章」
p28:典礼上の必要から「詩篇」が編纂されたことが、第三部である「諸書=ケトゥビーム」を設けざるを得なくなった理由とされるのが普通
P29:紀元1世紀のユダヤ教の聖書は「律法と預言者」→「マタイ7:12」
P32:強大な帝国が出現して安定した平和が来ると、国際的な通用する支配文化が周辺中小規模の文化を駆逐しながら拡大してゆく。長期的に見れば帝国の「平和」の中では文化の多元性は維持され難い。
P36:『七十人訳聖書』は翻訳なのに何故かヘブライ語聖書に匹敵する「権威」を得た。しかし、互いの「諸書」の編成は異なっていた筈。
P37:紀元1世紀のユダヤ人口はローマ帝国内全人口の10%(恐らく最大見積もりで?)
P41:「十字架刑」とはこの上なく否定的な評価が公式に表明されること。
P42:活動当初のキリスト教徒はユダヤ教徒とは未分化で「ユダヤ教ナザレ派」である。当時のユダヤ教内には「民族・エリート」主義的傾向と共に「普遍・解放」主義的な傾向が存在し、「ユダヤ教ナザレ派」はこの「普遍・解放」をハッキリと主張した流れの1つであった。
P43:「使徒行伝」を見る限り「キリスト教運動」は「シナゴーグ」で行われている。
P51:「同じ山はどこから登っても同じ」といった安易な比喩には惑わされてはいけない。登山を試みても全ての人が頂上に登るとは限らず、その登り方、選んだ道、眺めた山、登った山、1人か多人数でかと「同じ山でも千差万別」
P60:「主の言葉」と「使徒の宣教」は長い間、「口頭伝承」の方が書かれたものの権威より遙に重要であった。
P65:140年以前に福音書集の様な存在のハッキリとした証言は無く、共同体内でも福音書を明確な権威をもったものとして位置付けられた証言も無い。これが確認できるのは2世紀半ば以降まで待たなければならない。
P67:「社風に合う」の概念用法は「使徒的である」と似ている。実は会社側の決定が「権威ある不動のもの」としての使われ方。
P78:キリスト教も3世紀に一度ローマ帝国の統一原理に採用されかけた様子があるが、期待通りには機能しなかった模様。
P85:パピルスの産地がイスラム圏に押さえられた「紙不足」のときに紙面節約の要求から「小文字」が採用される。「羊皮紙」のテクストを消して別のテキストを書く反復利用もこのころから。
P86:GOD IS NO/W/HERE 「ヘブライ書2:9」→「神の恵みによって」が「神なしに」の写本がある。
P92:不注意による誤り:「綴りの書き誤り」、「ハプログラフィ=重字脱落」→「ヨハネ17:13-16」の「世」、「ディットグラフィ=重複誤写」、「朗読の誤り」、「底本の欠陥」
P95:故意による誤り:「平行箇所に合せる」:「人間をとる漁師」→「人間を生け捕りにしている(ルカ直訳)」
P100:新約聖書研究の専門家の条件:ギリシアヘブライ、ラテン、シリア、コプトの各古語と近代の英仏独語
P102:厳密な正文批判の研究が必要と意識されたのは17世紀後半からで、本格的な正文批判の作業を経たギリシア新約聖書が出版される様になったのは19世紀半ばから:印刷されたギリシア新約聖書は1516年バーゼルの印刷業者フローベンが出版した。テキスト確定は「ビザンチン写本」を基にエラスムス(『黙示録22:16-21』はラテン語版からエラスムス自身が作った)が行ったが、現代の正文批判の専門家の言を借りれば「小学生の宿題」レベルの出来だったが、この2版(1519年)は1521年に発表されたルターのドイツ語聖書の底本になった。この系統の翻訳を尊重する聖書の有名なものはエルゼビィール兄弟の『テクストゥス・レケプトゥス(1633年)』で後の学者から「受け容れ難いテキスト」とこれを非難する研究書が出る度に、教会・社会全体から「誤りに満ちた聖書が普及するのを神が許す筈が無い」と反論された。「無知と偶然」によって普及したものが神的権威のあるものとして支配した。
P108:
「アンティオキア写本(別名=シリア、ビザンチン写本)」:論理・形式美に拘りテキスト変更に躊躇しなかったので正文批判の側からは価値が低い。
アレキサンドリア写本(=エジプト写本)」:「バチカン、シナイ写本」がこのグループに属す。
「西方写本」:「コデックス・ベザエ」
p111:<外部批評>:(1)作成年代の古いテキスト優先、(2)地理的に広まったモノ、(3)広範な集団で使用されるもの、ただし、(2,3)では孤立したものが真実を含むこともあるのは云うまでも無い。
<内部批評>:(1)短い、(2)解釈の難しい
p114:1520年から1850年までに印刷されたものと1850年以降に出版されたテキストの差は大きい。
p123:<文脈考慮>:「ルカ5:1-3:舟から群集を教えた」の舟が教会なら続く「ルカ5:4:彼らは舟を陸に引き上げ、全てを捨ててイエスに従った」で舟(=教会)を置き去りにはしないだろう。
p130:ヘブライ人への手紙9:15-19:2つの意味(契約と遺言書)を持つ単語(ディアテーケー)が翻訳先には同様の単語が存在しない以上解決困難
p133:ギリシア語テクストに敬語表現が無いのに敬語の訳し分けをしている:
p138:「エウアンゲリオン」:ヘブライ語の「岩を転がす(エベン・ギライオン)」の音写が含まれる。墓を塞いでいた岩が転がされる印象は復活を喚起する基本的イメージの一つである。
p141:伝記物語とは事実についての忠実な報告というより「限られた関心から」執筆されるものである。
p142:小さいいくつものエピソードが集められて福音書が成立したのは各エピソードの導入部分に曖昧な表現(その頃、その時、その後)が用いられていることから窺い知れる。
p144:わたしたち必要な糧を(今日/毎日)与えてください。:この「与えてください」は「アオリスト」で一回きりの動作に関わるものであるから、「主の祈りでの必要な糧」とは神の前での大宴会で食べるものの意になり、「神の国の終末論的な完全な実現」が未来ではなく「今日」成就することが希求されている神学的部分内容で日々の生存の為に必要な物資が問題にされているのでは無い。
p148:(心の)貧しい者は幸いだ:後の「ルカ6:24:の不幸だ・・・」という呪いの言葉において「金持ち」が話題とされていることから経済的に貧しい者が問題とされている。「マタイ5:3」は奇妙な表現で「経済的な問題を回避」しようとしている。
p156:共感福音書成立以前に福音書が存在した可能性は限りなくゼロに近い。
p158:マルコ福音はユダヤ当局はもちろん、「弟子や群集」もかなり厳しく非難されており、イエスの「神の国」運動が社会的には完璧に失敗した印象を抱かせる。
p174:「一字一句を揺るがせず、聖書全体に文字通りに従う」ということは聖書を読まずに「物化」または「偶像崇拝」の対象としている。
p179:礼拝説教などでしか聖書と接点の無い人は、福音書成立以前の口頭伝承時代のキリスト教徒と同じ境遇にある。
p181:「生活の座、奇跡物語、論争物語」:「マルコ2:27-28」27節の「安息日」と「人」はそれまでのエピソードのうえで自然だが、28節の「人の子」は「論理的飛躍」がある。27節と28節の言葉が別々のエピソードを反映しているからである。
p187:社会学的アプローチは1980年代から、ゲルト・タイセン
p192:新約聖書の各文書は新約聖書という文書集に収められること目的に書かれた訳ではないから「何故ギリシア語で書かれたか」という問いは不適切ではある。
p195:重要な人物について「伝記風物語」の叙述をする伝統は充分存在していたのに、イエスの十字架からマルコ福音の成立まで20年から35年の時間がある。
p198:イエスは読み書きできたか:「ルカ4:17-20」のシナゴーグでの聖書朗読はマタイ・マルコには無い単独記述、「マルコ12:10」は聖書を読めた思えないこともないが、「書く」というエピソードは「ヨハネ福音8:6」の「地面に何か書いた」
p203:使徒は一代限り:イエスの活躍した同時代に直接師事したことを根拠に真正とされる口頭伝承を「独占」して権威を有した「十二使徒」の集団も「再生産できない使徒」達が続々と死んでいくと、集団の権威維持の為に福音書を受容せざるを得ない状況になる。
十二使徒」は「福音書」の成立で大打撃を被る。
p207:「使徒行伝」のみだがエルサレム教会のトップが「使徒ペテロ」から「主の兄弟ヤコブ」へ交代したのは「福音書」の成立が従来推測より早く起こって「使途の権威」を失墜させた(マルコの内容は考慮しない場合の考察)可能性もある。これは16世紀の宗教改革カトリックに独占された社会・宗教的権威が聖書印刷を背景に解放された事件に似ている。
p208:「コリントス2・2」でイエスの言行についての情報には価値を置かない立場が表明されている。
p210:少なくとも「十字架のイエス」のみを重要とする立場がマルコ福音の成立で衝撃を受けたのは間違いない。
p219:パレスチナ地方以外で暮すユダヤ人には異邦人と婚姻して罰せられることなく生活している例も残されている。
p220:「葡萄園と農夫の譬」:主人=神、葡萄園=イスラエル、農夫達=ユダヤ人指導者、僕=預言者、息子=イエス
p222:「復活問答」:サドカイ派は復活があると「レビレート婚」が律法不適切となるので復活は「ない」とする。
p227:「貧しいやもめお賽銭」:やもめが誰よりもたくさん「入れた」は「搾取された」の意で、生活費の全部を神殿制度に取り上げられたことを非難している。これを貧乏人から献金を巻き上げる口実に使う教会の解釈はヒドイ「誤り」である。
p228:「税金問答」:神殿税で潤っているユダヤ人指導者も搾取者であると言っている。
p230:「律法学者批判」:やもめを食い物にして
p231:貧しいやもめの賽銭を「貧しい中からも教会に献金する例」だと言う解釈をする者は「やもめを食い物にしている」のであり、イエスの言葉によれば「人一倍厳しい裁きを受けることになる」
p233:エッセネ派は批判はされてはいないが、不十分である。「マルコ1:7-8:ヨハネ
p235:「正しい人」は差別の対象とならない人「マルコ2:15-17:罪人との共食」
p238:「シリア・フェニキアギリシア人)女の娘の癒し」:異邦人には価値的違いがあるのをイエスは認めている「ユダヤ人中心主義」である。
p249:イエスは復活の後ガリラヤに行くと述べるが、弟子は行かないでエルサレムで教会を築く。
p253:百人隊長の「本当にこの人は、神の子だった」を「信仰告白」であるとするのは酷く不自然で、前の文脈で「万歳、ユダヤの王」と愚弄の延長線上にある「皮肉」である。

p259:バラバ=バル・アバ=父の子:
p263:情けない信仰の表明でも許している。
p265:「マルコ14:読者は悟れ」:「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たら」
p272:「使徒行伝8:1b」その日(ステファノ殉教)、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、「使徒たちの他」は、ユダヤとサマリヤの地方に散って行った。これは「使徒たち=十二使徒グループ」以外の集団への迫害であった。前文脈からこの迫害にあったのは「ヘレニスト」なのだが、迫害を免れた「十二使徒」は「ヘレニスト」を助けたりしてはいない。
p280:重要とされる知識の独占が「イエスの言行の直接の証人」から「(ギリシア語の)読書きのできる者」に移行する。
p281:初期教会は批判の書(マルコ)を正典に加え「知識解放」の革命的な側面を拒否しなかった「開いた組織」
p296:本格的に読めば「知識解放」の手段としての側面が機能するが、「読んでも読まない」ならば、社会宗教的な権威構造を支える手段としての側面が機能してしまう。
p298:「外部」のものと無闇に拒否すると貧しくなる。しかし、新しいものを取り入れる際に、実は相対的なものを「絶対的」と見誤ってしまうのもまた危険。

『イエスとその時代』荒井献
キリスト教の揺籃期』エチエンヌ・トロクメ
『原始キリスト教史の一断面』田川建三
『マルコ福音書田川建三
『マルコによる福音書註解I』大貫隆