古事記は偽書か (1971年)

p22:中沢見明「古事記偽書か」大正13年→「古事記論」昭和4年
p23:筏勲「上代日本文学論集ー古事記・歌経標式偽書論と万葉集」昭和30年:古事記「序」の形式に疑念
p31:日本書紀には本文の他に「一書(あるふみ)」という六書の別伝があるが、四書と六書には各2つの伝承を含むので「一・二・三・四1・四2・五・六1・六2」の8伝あることになる。
p39:日本の神話や国史を最初にまとめたのは、推古朝28年(620)の「天皇紀及び国紀、臣・連・伴造・国造・百八十部並びに公民等の本紀」でこれは焼失するまでの「25年間」多くの人の目に触れた筈。
p51:五部神(イツトモ)・五穀(いつのたなつもの)はもとは五ではなく神秘的な力を「イ」または「イツ」を冠して呼んだもの。稲(イネ)も周囲民族では「ネ」が語源で、わが国では「イ」を接頭語として付けた。
八咫鏡(ヤタ)・八尋殿(やひろどの)の「八」も数が多い意の「弥(や)」からきている。
p61:「記紀」は共に父権的観念で書かれている。
p62:「面足尊・惶根尊」は例外で夫婦ではないが、泥土煮尊・沙土煮尊、角杙尊・活杙尊など、諱(いみな)を同じくするのは同腹の兄弟姉妹、これは姉の神託によって、弟が政治を行う古代の祭政二重主権の形態を示したもの
p63:高砂族の伝誦の程度は5,6代が過半数を占め、60代に及ぶのも2,3例(頭目家・祭司家)あり、世代を遡るに従い神話的知識が濃厚になる。(馬淵東一「高砂族の系譜」)
p44:「ツ」は助詞の「の」にあたる、「チ」は神霊の称なので、「〜ツチ」は「〜の神」の様な用法。
p73:橘守部は「稜威道別」で、男女の掛け言葉は昔の「娶(つまどい)」の風習を記したもので、「かがい」のもとであろうと。
p79:古事記が「大日本豊秋津洲」を本州としたが、「秋津洲」は古くは本州全域のことではなく大和周辺・葛城山麓の呼称、これが国号になるにおよんで「大倭(おおやまと)=大日本」を冠したに過ぎない。
p94:黄泉説話は古代の葬送習俗に取材した。琉球には最近まで墓地の死人を訪れる風習があった。棺の蓋を開けて、霊を慰めるための歌舞を死臭に耐えられなくなるまで毎日続けた。
p96:「禊祓い」の元は御阿礼(御生=みあれ)、巫女が川に身を浸して天の神霊を受けて身ごもり神の御子を生むこと。
古代、神は山の彼方にあり、天の神霊は山に降り川から流れ下ってくると信じた。この眼に見えぬ神霊を「川から流れる一本の矢」と具体化した。厠で大物主神が化けた「丹塗矢」に富登(ホト=女陰)を突かれて勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)が生んだその名も「富登多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすぎひめ)」は神の子となる。賀茂大神の出生も神霊が矢となって川上から下ったもの。「御阿礼木」の様な樹木が神の依代になるのは川中の神事より後世の話になる。
以上、御阿礼(禊)の神事は神との性的交渉を意味していた。経年すると精神的に天の神霊が降臨することとなり、祭儀が女から男に移る。男の司祭が川に入って禊をし神霊の降霊を受けるようになると、神霊を受けるに相応しい心身となる為に俗塵を払い除ける効用をもつものだという考えが生じた。
古い禊は神霊を身に受けるか教示を得るのが目的の行為であったが、次第に身に付いた罪や穢れを除去する行為へと移行したのである。
三貴子」の出生は御阿礼(降霊)の思想にもとづくものであり、罪穢れを除去するという後代的な禊の観念は無い筈であるが、「身の所汚れを濯ぎたまわん」と時代・観念的に異なる2つの禊の思想が1つの物語に組まれ、また、「男」による御阿礼という倒錯した物語の構成は後世(または異国人)のものであろう。
・「三貴子」の出生までに登場する神は古事記は59柱、日本書紀では7柱
p113:「古事記」×4回:八百万(やおよろず)に対して「日本書紀&一書一」×6回:八十万(やそよろず)
p115:「一書一」で「天香山」の金で鏡を造るところを「古事記」では「天金山」と改めている。神話上の天香山を実在する大和の「香具山」に比定したのはいいが、香具山からは金鉱石が産出されない為で、これは「古事記」が「日本書紀・一書」の神話を「合理的に解釈」することを試みている一例。
p116:鏡作造は天武朝12(683)年に鏡作連に改姓天平14年(742)「優婆塞貢進解」に鏡作連清麻呂の名も見えるが、「新撰姓氏録」には無いので絶家していた。天武13年10月に「八色の姓」が定められても「日本書紀古事記」は天武朝以前(改姓前)の姓で全て統一している。しかし「古事記」は迂闊にも「鏡作」氏だけ天武長12年に授かった「鏡作連」となっている。「造」日本書紀にある様に「部」と記されるべきだったが、絶家していたので事情が掴めなかったのか?
p187:喪屋を蹴り離す:出雲で死んだ人の喪屋が、美濃の喪山となったのは古代人には筋が通っていたし、面白さを感じることが出来た。「古事記」の作者はこの面白さが理解できなかった。
p191:古代の戦いでは、先ず敵地の入り口で神を祭り、守護を祈願した。人に先立ち神同士の戦いあったのである。そのため、敗れると人々は神を呪った。
p192:神は「矛、鏡」を印として従軍した。鏡が伊勢に鎮座するのは、この地が東国政略の出港地(入り口)と考えられたからである。
諏訪神社周辺古墳の遺跡証拠は7から8世紀だが、信濃平定は「12代景行帝」のとき
p204:「日本書紀」推古朝35年(627)5月条と33年後の斉明朝6年12月にもある「蠅」は「灰」であり浅間山噴火の火山灰が太陽光を遮ったか?
p214:賀茂真淵も内宮の2神の「思金神」には疑義をはさんだ。
p219:大来目部は大伴氏に従属した部民、組は古代の軍団、来目歌は軍歌
p251:「日本書紀」俳優(わざおぎ)の民として弟に仕える。古事記は「守護人」
p256:「古事記」は「日本書紀」の各記事を直接に資料として使い、僅かに風土記などをもって補い、それらを取捨選択して総合的に纏めただけでなく、後世の常識的智慧で改変・粉飾したものと名言できる。
P260:築島裕は序に「以二 丹点一 明二 軽重一」の丹点(=朱点)はアクセント符号で平安中期以後、中田祝夫も「点」の最古用例は延喜3年(903)と言う。
P262:「日本後紀」の弘仁3年6月2日条の「散位人長執講す」は長官クラスが対象の公事としての講演で、「弘仁私記弘仁4年にあるのは天皇が命じた若手官僚相手の研修会の記録で別のモノ。
P277:「弘仁私記」は日本書紀とは異なる申寅元年説の暦法神道五部書と同じ)を採用した。
P282:古事記は「紀年」を欠いている。
P294:古事記は「新撰姓氏録」に不満があり、かつ中臣氏にへつらう者が書いた。
P295:菅原氏の遠祖である土師氏が古事記で省略されているのは本家の「出雲氏」がいれば充分と考えてのこと。
P296:神武から開化にいたる葛城朝9帝の系譜はことさら詳しくて総数106氏の内、「新撰姓氏録」で56氏、「日本書紀」で101氏(27氏は文中にあるも出自が不明)は記載不明。
P303:多臣が葛城朝由来からか?
延喜式神名帳」で多臣は「多坐弥志理都比古神社 二座」と弥志理都比古とその姫神を祀る神社で、皇統に縁は無い。
P309:甲乙類13の仮名使い:平安朝初め、発音は乱れたと思われるが、仮名の表記は相当の区別がされている。