神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)
P5:皇国内宗門復古神道
P6:神仏分離の「神」は「記紀神話延喜式神名帳」に拠り所があるか、皇祖に貢献した特定の神々である。一方、廃仏の対象は「仏」ではなく、明治新政府に疎まれた「神仏」の全てであり、既に存在していた神々を仏から分離したことでは無い。
P7:明治4年(1871)東本願寺の上奏文案ー”我らの本尊弥陀如来は皇国天祖と「同体異名」にして、智慧より現れては「天の御中主尊」と称し奉り、慈悲より現れては「弥陀如来」と申し候”
P13:天文24年(1555)「相良氏法度」の禁制に”祝(ほふり)・山伏・物しりに宿を貸すな、素人の祈念・医師(くすし)取り、みな一向宗と同様に見なす”
P15:永禄6年三河一向宗では家康の有力家臣も加わっていて、彼らは家康が討伐に来ると刃向わず引き上げ、家康が退くと引き返して家康麾下の手勢を破った。「門徒と主従」の二重関係が一揆の渦中でも継続していたのである。
家康ー”一揆参加者の赦免・「寺内」を以前の如く存続させる・首謀者を処罰しない”から和睦しろ!
一向宗ー”和睦したから約束を守れー
家康ー”前々(以前)は野原なれば、前々の如く野原にせよ”ーと寺院を破壊した。
・切支丹・一向一揆・不受布施派
・「破堤宇子(はだいうす)、破切利支丹」
p21:戦国大名の分国法以来、私の誓約、私の婚姻、他領の者との私信など禁止、争いごとの自力救済が禁じられ
p23:「藤堂高虎」曰く”釈迦は2体なり。1体はインドの浄飯大王の子ともう一体は殿様である。”
p25:寺檀制と本末制
p26:仏壇の成立:中世村落の名主・地侍層が自らの信仰修養や先祖の菩提を祀るための屋敷の内外の「持仏堂」に由来する。寺檀制・本末制と小農民経営の成立を背景に近世前期にはどの家にも祭られるようになる。農村・都市を問わず家の自立化が「家の祖霊祭祀」を喚起して仏教と結びついた。仏壇の成立が他方で神棚の分立をもたらす。(竹田聴洲「近世社会と仏教」)
p27:日常生活の現世利益的願望を仏教の様式を借りて表出させたのが近世の宗教生活。権力者が制御したかったのは切支丹・一向一揆・不受布施派等の異端、在家法談、夜談義、人集め、遊行勧進僧の入国、新法異説、流行神等の行動様式で、信仰的内容に興味は無かった。
・萩生徂徠:政府が祭祀を執ることの必要を説く
p30:中井竹山「草芽危言」、中井履軒「年成録」、庄司考祺「経済問答秘録」等の近世廃仏論を代表する著作の攻撃対象は一向宗日蓮宗・廻国の行者・修験・乞食坊主の活動と仏教に属さなくい民間信仰的な祈祷・勧化・祭礼。宗教活動の内容に反権力・反秩序が含まれていなくても、人心が宗教的幻想に捕らわれるのを儒学者は忌み嫌ったのである。
・幕末尊王攘夷思想の代表作「新論」(会沢安)
水戸藩の寺院整理、長州藩の淫祠破却、
・淫祀論争:国学者近藤芳樹は延喜式神名帳に掲載を正祀とし、以外は「淫祀」としたが、岩政信比古は「淫祀論評」で反駁。
p51:慶応4年3月17日”別当・社僧の「復飾」(還俗)”、閏4月4日”神社に神勤する僧侶に還俗して神主・社人などに改称するよう”、閏4月4日”神職は家族も神葬祭に改める”と神勤主体の布告がされる。
3月28日には礼拝対象の神仏分離を求めた布告がでる。
廃仏毀釈の事例:
・日吉山王社:慶応4年4月朔日の昼前、武装した諸国の神官出身の志士からなる神威隊50人、人足50人、日吉社の社司・宮仕20人程の一隊が半日に渡って仏具・経典を焼却・破壊・略奪した。首謀者は日吉社、「社司」の樹下茂国で岩倉具視と知己。後に処刑される。
延暦寺鎮守神である日吉社神職延暦寺の僧職の指示の下に神勤していた。江戸時代では神社には社僧など僧職身分が上位にあって、社司・神主・禰宜・社人の神職身分はその下にいるのが通例だった。この日、日吉社延暦寺の支配から外れる。
延暦寺は山門守ろうとする上坂本村の百姓「三拾六人組」、日吉社に神勤する下級法師の「公人」の仲間内で成立した「周旋組」が、被差別部落民に金穀を与え日吉社の神輿に投石、社人殺害(の流言を広める?)、神祇官に発砲(?)などの示威行為で日吉社家に抵抗し事なきを得る。
興福寺:「一山不残還俗」して廃絶、僧侶の一部は春日社に神勤し、多くは離散する。
・岩清水八幡宮八幡大神に改め、社僧が復飾、神前に魚味を出し、祭儀様式を改める。
・北野神社:住僧49人が復飾、「法体」の社僧は先祖の位牌を捨て神職に転じる、一方で「俗体」の社人には家内の仏壇・位牌を護持する者があった。
p60:慶応3年12月、矢野玄道は「献芹償セ語(けんきせんご)」を奉呈、「天神地祇ノ御祭祀」が第一の政務と進言した。(岡田米夫「神官・神社創建史」)
p63:明治4年〜8年頃の神社創建事情
・楠社:
白峰宮
・招魂社:
・豊太閤社、建勲社(信長):東照宮への対抗の意味で創建
p64:お黒戸:平安時代以来、皇族の霊は宮中のお黒戸に祀られていた。これは民家の仏壇にあたり位牌が置かれ仏式、天皇家菩提寺は泉湧寺(せんゆうじ)
・熱心な仏教信仰者であった山階宮晃親王明治31年に自ら死に際して仏式葬儀の遺言をするも、枢密院は「典礼の紊乱」を恐れ許可しなかった。
・慶応4年4月、九州鎮撫総督沢宣嘉はキリシタン13名を処刑
p75:大隈重信の後悔:キリスト教への危機意識が神道国教主義の昂揚へと直結。
P76:東本願寺佐幕派西本願寺=勤皇僧の活躍が顕著だった
・慶応4年6月、太政官浄土真宗各派の代表を呼び出し、新政府に廃仏の意思が無いことを表明した。
P83:明治元年の風聞:人々の幻想形成力が刺激され
親鸞に大谷大明神の勅号をあたえ、真宗5派の門主神道に転じて「宣教使」に任命される。
・東寺は弘法神社
等の流言が流行る。
P87:神葬祭を推進する神道家からすれば、日ノ神や山ノ神信仰も、虫送りや雨乞いも、婚姻習俗や正月行事になどにちりばめられた宗教儀礼は人心を迷わす迷信や勝手な濫費であった。
隠岐の正義党と出雲党
明治元年11月、佐渡全島の204村、18811戸に寺院539ヶ
p105:神国教:1915年元内務省の井口丑二が蛭川村で開く
P118:明治政府が確保したいのは、天皇を中心とする新しい民族国家への国民的忠誠心で、国学者神道家の祭政一致思想・復古神道的な教説は手段として採用されたが、国民的忠誠心を有効に確保できそうなイデオロギーならなんでも、新政府と結びつく可能性があったので、仏教も自らの有効性を証明し、再生を謀るのである。
P119:明治2年7月神祇官の職掌は「祭典執行・陵墓管理・宣教」の3つ、令制に規定のあった御巫(みかんなぎ)と卜兆(ぼくちょう)は除かれた。
P122:明治2年3月に「教導局宣教使」設置される。
神祇官の実態:「昼寝官、因循官」と呼ばれる。
・福羽美静と小野述信(長州閥儒学者)対 丸内作楽・常世長胤(平田学派)
・大教院の四神(造化三神天照大神) → 宮中三殿賢所(天照)、皇霊殿神祇官廃止のとき神殿の皇霊を移すことで成立)、神殿(神祇省廃止のとき神祇官時代からの神殿に祭られていた八神と天神地祇を移して成立)
P125:伊勢神宮の改革:内宮と外宮の差別化、荒木田・渡会の両氏以外からの神官採用の廃止御師による大麻配布の禁止。
P126:表2:伊勢神宮神官新任状況 内(神宮出身)、外(外来)
明治4:5:6:7:8
内:21:27:15: 1: -:64(うち御師11名)
外: -: 5:24: 6: 4:39
P131:明治4年5月14日布告「官社以下定額及び神官職員規則等」:官・国弊社の具体を定め、その下に府藩県社・郷社・産土社(うぶすな)を置いた。同時の布告で神社神職世襲を禁止。7月の「氏子調規則」では新生児は必ず産土社に詣でて守札を受け、死んでは守札を神社に返すことが定められた。氏子調は宗旨とは別次元のことで仏教信仰は容認されたが、6年毎に戸籍改めには守札が調べられ、移転には移住地神社の守札が必要だったので、「宗門改め」に替わり国家の戸口把握の役を神社が請負うこととなる。
・郷村社:村毎に1村1社を原則とする「村氏神=村社」が置かれ、区毎に郷社、村社は郷社の附属とし、国家が「差し出す神々」の受け皿となる。
P134:明治4年7月、御師が廃止され「神宮司庁」が大麻製造・地方官を通じて全国配布することになる。従来の大麻は罪穢を祓う祓禳神具の性格だったのが、「神爾」の性格が与えられてその名も「天照皇太神宮大麻」と記された。大麻の全国強制配布は地域の伝統的宗教体系を破壊するものであったので、各地でそれを忌避する(主に真宗との)衝突が発生した。
明治11年に地方官は大麻配布に関与しないこととなり、その受否は「人民ノ自由」とされ、以後大麻販売は神宮教会・各地神道事務局などの仕事となる。
P143:伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とする新たな祭祀体系は祭政一致の復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、新たな宗教体系の強制であった。
P145:修験:江戸時代には本山派と当山派に分かれ、それぞれ京都聖護院・醍醐三法院に属していた。
修験への神仏分離政策の影響:各地で廃絶した修験は極めて多数、しかし、神社の神職需要が高まると供給源となった。「権現号」を持つものを神道に属しめる神祇官(→教部省)の方針が各地で強要される。
佐渡:奥平謙甫の廃仏政策の一環で本山派68院の内3院が還俗神勤した外は帰農を命ぜられる。生活基盤を奪われ「渇命之場、上記狂乱」
吉野山蔵王権現を祀る蔵王堂を中心に多くの寺社からなり、全体を金峰山寺と呼ばれていた。諸寺院は参詣者の宿坊を兼ね、百姓身分290軒の中65%が寺院関係の仕事か参詣者目当て職業にあった門前町
一山を支配するのは学頭、その下に寺僧・満堂・禰宜といたが、禰宜の管理下であった水分神社神職、前坊修理亮とその子の伊織は吉野山一帯の社寺を権力を通じて横領しようと企むが、祭りの神輿が前坊居宅を破壊するなど町方百姓の抵抗がある。
金峰神社:明治7年に蔵王堂が「口宮」、山上蔵王堂を「奥宮」、山下蔵王堂の3体の蔵王権現像には幕が張られ神社のた霊代として鏡・幣束がたてられ地主神金精明神を金峰神社と改めて「本社」とされてしまった。しかし、山中の宿坊を訪ねてくる「講中」は蔵王権現の信仰者であったから鏡・幣束を無視、口宮で蔵王像、山上で行者堂に参詣した。13年から神道化した寺院の復帰が認められると、19年に2つの蔵王堂も仏教に復した。
出羽三山別当・社僧・修験・社人などがいた。1山を統括するのは別当羽黒山別当は月山別当を兼ね東叡山に属し湯殿山別当真言宗に属していた。羽黒山には社僧十八坊があり、麓の手向村には360戸の修験がいた。社人は独立した立場ではなく、行事・祈祷の大部分は仏教的様式であった。僧侶は表面上は復飾神勤を造ろう。
羽黒修験:5年7月修験宗が廃止され修験は所属寺院に従って天台宗真言宗に属することになった。
富士講:仙元大菩薩または(モトチチノハハ)と呼ばれ、山頂には大日如来が祀られていた。登拝者は「南無阿弥陀仏、六根清浄」の唱和で登拝した。
山麓にあった浅間神社の祭式が式部寮で定めた様式になる。仏像は除かれ、山中の地名も「薬師岳→久須志岳、文殊岳→三島岳、釈迦の割石→割石、釈迦岳→志良岳、大日堂→浅間堂」と改まる。
竹生島
秋葉山
稲荷:
相模大山の石尊権現:
愛宕権現
神田明神:町民の信仰は平将門にあったので逆賊の将門が末社に移されると、誰も賽銭を投げなくなった。
「神社廻見記録」:
氏神が無いことを誇りにさえした一向宗
・多様な神仏の中から国家によって村の氏神(産土社)だけが選びだされ、現在我々が思い浮かべる神社の鳥居、社殿、神体、礼拝などの諸様式の大部分がこの明治初頭に成立したのである。
p176:乞食の取り締まり:乞食は遍路・六十六部のような下級の宗教者、門付けの芸人に近い性格から、怠惰と社会的浪費を集約的に表現するものと捉えられた。疾病・不具により止む無く乞食になったとしても、境遇の責任は本人にあるとされ、地域の民衆は食物を恵んではならず、地域共同体は橋下・社寺の境内から乞食を追い払わなければならなくなった。
p181:明治4年9月、島地黙雷教部省設立を提言。神祇官神道唯一主義を廃し、「教義を総(すぶ)る」官を起して神仏合同の教化体制を作ることが建白趣旨。
教部省は5年3月に設立、14級階の教導職が定められ、神仏双方から任じられた。7年に7247名で神官4204名、僧侶3043名だった。能力試験導入後は総数が増えて13年には100,435名となる。(神道21421、天台宗4754、真言宗9406、浄土宗10636、臨済宗6054、曹洞宗16713、黄檗488、浄土真宗24701、日蓮宗5448、時宗505、融通念仏309)
教則3条:
一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキコト
一、天理人道ヲ明ニスベキコト
一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキコト
の教則3条は教導職御用掛となった江藤新平の起草。この3条のみでは具体性に欠けるので6年2月、11兼題が定められた。以下
「神徳皇恩、人魂不死、天神造化、顕幽分界、愛国、神祭、鎮魂、君臣、父子、夫婦、大祓」
6年10月には17兼題
「皇国国体、皇政一新、道不可変、制可随時、人異禽獣、不可不教、不可不学、万国交際、権利義務、役心役形、政体各種、文明開化、律法沿革、国宝民法、富国強兵、租税賦役、産物製物」
教科書は相次いで刊行された。
大教院:造化3神・天照を祀る神仏混淆の布教所の様相で、開院式では烏帽子直垂・円頂法衣が一緒に祭儀に臨み真宗管長大谷光尊(明如)は法衣のまま拍手を打ち神降の式をおこなう。神道的様式に仏教側が無定見に迎合し「真の妖怪集場」(島地黙雷)が出現。
黒住教、吐菩加美講:
p201:島地黙雷は外遊して、日本でキリスト教に対抗できる程に近代的なのは、1神教的な浄土真宗と確信、開帳・祈祷・卜占を生業にしている真言宗法華宗は「叩き潰す工夫が肝要」、禅宗天台宗は学問で宗教と言えず、八百万の神を信ずる神道にいたっては、宗教学的には最も未開な原始宗教にすぎないと論じた。
森有礼の英論文「日本における宗教の自由」は諸外国への配慮が働いている。
・一夫多妻のモルモン教と「自由恋愛党」は「倫理の当然」を否定するものと加藤弘之は「米国政教」で述べている。
神道に対する特別保護の緩和:6年2月切支丹禁制の高札撤去、郷村社祠官祠掌の給料の民費課出の廃止、6年5月氏子調の中止、6年7月府県社神官の月給廃止
明治15年神官の教導職兼補が廃止されて、神官は葬儀に関与しないこととなる。
p210: