出雲神話の誕生 (講談社学術文庫)

出雲神話の誕生 (講談社学術文庫)

P26:第18代反正の御代に国造と同時に出雲臣の氏姓を賜る。
第19代允恭帝4年、氏姓の乱れが政治の乱れの元とされ、是正の目的で「盟神探湯(くがだち)」が行われる。
この氏姓の是正以後は、臣姓は孝元帝以前の皇統の裔に授け、連姓は天神の裔でしかも中央の勢力家に限られ、国造の殆どは直姓(あたいせい)である。
P37:神郡としてあるのは熊野神社のある「意宇郡」、出雲郡は違う。
P77:「あはれ」=アッパレ見事
P90:皇族の葬儀の役目が出自であった土師連・土師宿禰光仁朝の天応元年(781)6月「続日本紀」土師の称を忌みて菅原姓に、続いて秋篠、大枝に改める。
P93:出雲国造は8世紀初頭故地の意宇郡大庭から杵築に転居した。しかし、大庭の旧屋敷地には別館がり明治維新まで毎年の新嘗祭のときと国造世替りの神火相続の儀式のときは、この別館に赴き、神事は別館上手の丘にある「神魂(かもす)神社」で行われた。この神社は天平11年に火災により再建されたものだが、典型的な大社造りで国宝指定されている、しかし何故か「延喜式神明帳」には記載が無い。
P98:東部意宇川流域には国造も住んでいたが「記紀」の舞台は西部の肥河(斐伊川)。東部には全・中・後期と古墳が分布し、巨大墳丘も多いのに対して西部では後期古墳が主体で数において劣るし、大型古墳は僅かに2基。
P100:出雲郡では「日置部臣」の権力は独壇場、居住地も「肥河」沿いで、「出雲国風土記」の意宇郡舎人郷の条にみえる「倉舎人部」として皇族の近侍・雑役に代々仕えた部民。「風土記」の日置臣志毘は大舎人として中務省に属した。この省は侍従の任免・詔勅の布告、宣旨・上表の取次ぎ、国史を監修、考課・位記を司る役所。
P102:「太安万侶」も関与か?同族出身でらしい?
P114:「賑給歴名帳」の杵築郷には「部民」のみ
「なむち」は「なむし(地主)」の転訛したもの
P117:杵築大社の発生は簸川平野の開発が契機で、信仰地域も簸川平野に限られる。
P137:果安国造が「古事記」の出雲神話を裏付ける大国主命の大社創建を朝廷に申請し、許可されると杵築に転居。「古事記」の撰上される以前に「杵築大社」が創立されたとは考えられない。
P143:いかなる部族も天つ神の子孫と信じ、神宝を奉じて天から降った伝説を持つ。
P144:宗像・安曇の名は消去された
P149:土師連は皇室の葬儀屋のイメージから「根国、黄泉国」が連想されたのかも?
P152:出雲神話の通俗説(古代出雲王国の存在というおバカ説):井上光貞「国造制の成立」、「大化改新」85頁
P167:出雲の古い神は「熊野大神、野城大神、佐太大神」の3者のみ
P186:出雲国は神話の裏方:高天原>根国、顕国>黄泉国、善霊>悪霊
「日の神・月の神・スサノオ、女・男・男、自然神・自然神・人格神」の不合理な三神対立が神話研究者を悩ませた。
P200:「大国主神」神話は個別の説話の連結
P214:「記紀」には「杵築の地名、杵築大社」のいずれも載せてはいない。
「大物主」の「もの」は「神の古称」
P232:「出雲国風土記」の美保郷の条で「事代主命」のことについて一切の言及が無い。「美保神社」の祭神は「御穂須須美命」
P244:「宗像・安曇」両氏は門閥(先祖に誇りを持った)故に、敢えて「国津神」に甘んじた。しかし、大和の古豪「三輪氏」にしろ「宗像氏」にしろ出雲族と血縁関係は無い。

(嘘から出たマコト?)
・昔、出雲に造って頂きました(事になっています)90m超級の大社が先の台風で(当然のことですが)倒壊しました。再建を致したく申請いたします。いや、今度は贅沢は言いません、半分の高さで結構です。
・私等は「記紀」神代の(又は欠史8代の)子孫です。あ、何かお疑いですか?
↑以上を「日本書紀」が書かれた当初に言い出したら「お前、ケンカ売ってのか」となるが、100年も経つと文句が言えないということか?