28:メラネシアでは死体処理は専任の墓堀人が当たるが、仕事後は数日断食しなければならない。フィジーで死体に触った者は数日食べ物に触れない。
・共感呪術=類感呪術感染呪術がある。J・G・フレーザー
・オブジワ・インディアンには「丑の刻参り」がある。
・正月に餅を食べない:適当な縁起話や作り話を理由にあげて正月に餅を食べない民俗習慣は、かつて「餅」に取って代わる以前の「イモ」優位を忘れられずに拘っている可能性がある。
・「きゅうり」の栽培が禁忌となるのも多い。
・神殿造りの「塗籠(ぬりごめ)」→「納戸」になる。
・縁切り寺:東慶寺明治4年7月まで「縁切り寺法」が有効であった。明治36年男僧住職になる。新田郡尾島町満徳寺
折口信夫によれば「新嘗」は贄之忌(にへのいみ)
・「丑の刻参り」:白い着物をまとい、髪振り乱し、白粉塗った顔に濃い紅を引き、歯には鉄漿、頭に被った鉄輪の3本足には蝋燭を立て、胸に鏡をかけ、口に櫛をくわえる。寺社の神木に恨みの相手をかたどった藁人形を5寸釘で7日間撃ち続け仕上げの7日目の帰り道に寝そべっている「黒い牛」を乗り越えることで呪いが成就する。
勧進帳の「天も響けと読み上げたり〜」の「成田屋ぁ〜」
・心中は「忠」の分解と武士から忌み嫌われた。
・最後の獄門は江藤新平:1879年まで晒し首(梟首)は刑罰としてあり、大久保利通は「除族の上、梟首、申し付ける」と拘った。
・四国の山中でサル=「キムラサン」、ウサギ=「ミミナガ、山の禰宜、シガネ、ダンジリ」、狼=「ヤセ」、馬=「タカセ」、犬=「ヘダ、セタ」、
・蛇=長いもの
彼岸花とってはいけない
・練沐:「練(ねりぎぬ)」を着て水浴
・「生死一如」:仏教では死に際して塩で身を清める考えは無いので「清めの塩」を僧侶自身は使わない。しかし、各宗派とも葬儀屋・喪家・葬儀参列者に「清め塩を止めろ」とは言わない。
・霊柩車を見たら親指隠す:小山田与清が1847年まで書き綴った見聞・諸説集「松屋筆記」に”親指の爪の間から魂魄(こんぱく)が出入りする”とあり、野辺送りの葬列に対して親指を隠した習俗が霊柩車に切り替わったたか?
・「友引」は引き分け勝負なしの意だが、火葬場が休業なので葬儀は休み。


民俗信仰を読み解く なぜ日本人は賽銭を投げるの (文春新書)
・日本人とは日本人とは何かの問いを頻りに発して倦むことのない国民(加藤周一
p20:桜は落葉広葉樹林の高木が陽光を遮る前に花を咲かせ実をつけて生き残る。平城京の造営で高木が伐採されたのが桜にとって有利な環境となった、ミツバチの媒介による品種間交配で八重桜などの変異種が生まれたのもこの頃、中国の梅に対して桜を愛でるようになったのは平安遷都のときからで朱雀大路には桜と柳が交互に植樹された。812年2月神泉苑で観桜の花宴が宮中花宴の最初、仁明天皇のときに紫宸殿の梅を桜に変えて「左近の桜、右近の橘」の始まり
・神無月=神の月、「無の字」に惑わされず、「かむなずき」と「音」を重視すべき「原田敏明」類例「水無月
・師走の最重要課題は借金の返済
・歳暮は親元に送るもの「年取り物、年取り米」と呼ぶ地方がある。
・かつては正月に老いも若きも皆で1つ年を取った。数え年
・餅、小遣い銭を貰い歩く→「ほとほと、かいつり」
p55:類感呪術=言霊信仰、語呂合わせ
・男女双体の道祖神は近親婚タブー?
p87:しっぺい太郎
p92:「犬聟入り」、八犬伝、華南山地の犬祖伝説
p96:日光東照宮の三猿:庚申、三尸の虫「彭侯尸、彭矯尸、彭質尸」、慈覚大師円仁が唐でも日本同様の庚申の行事があると伝えている。
・良源は「鳥枢沙魔法(うずさまのほう)」=変成男子の秘法(胎内の女子を男子に変える法)を会得していたと言うから、胎児の性別を判定出来たらしい。この人が石造墓塔の造立供養の方式を示し葬送造墓の先駆け「慈恵大僧正御遺告」。
死に臨んで写し取られた画像が呪力を発現、豆大師・角大師の護符が作られる等、死後も「良源」の遺影、遺骸は祈祷調伏の呪験の威力を発現し、保ち続けると考える人が良源の石卒塔婆に弟子が来礼することを促した。
・香典:天象19年(1550)足利義晴の葬儀に細川晴元の百貫文「万松院殿穴太記、群書類従」が最初。
・香典返し:葬儀に参加し労力を提供したが「食事を共にすることがかなわぬ人」に渡したのが「香典返し」でそれ以外には返さない。
・一俵香典:近畿地方で一升香典、二升香典、斎米
・かつて農村の葬儀では隣近所の「クミ」が一切を取り仕切り「家族・親族」は一切、口出しせぬ方法
・棺を担ぐのは「関西」では孫・甥、「関東」では他人・穴掘り、
・「野辺送り」の葬列が霊柩車に駆逐され、空いた時間を埋める目的で葬儀業が考案したのが「祭壇、葬儀式、告別式」
・位牌:南北朝の禅僧「義堂周信」の「空華日用工夫略集」の応安4年(1371)12月30日条の記事で位牌は「宋」から伝えられたもので昔は日本には無いとある。足利義満の葬儀に位牌・祭壇に遺影が登場するのが最初。
・清めの塩:「米糠」も塩と同様、「清め」に使われた地方もある。塩は実際に「海水」で洗った残滓とも云う。会葬御礼の塩袋は葬儀社発案だが、野辺送りで棺を運び直接埋葬や火葬に参加した者だけが家に入るときに行うものだった。
・49日:文化12年(1815)ころ全国各地の風俗アンケート調査を試みた屋代弘賢の「諸国風俗問状」に対する回答によると、既に行われていたらしい。
・埼玉県新座市内の1533基の石塔:最初は檀那寺の住職が石塔を建て、有力檀家が続くと、やがて一般の家も一斉に石塔を建てるようになった。最初が寛永5年(1628)で、万字3年(1660)までの30年間には22基だったが、寛文元年(1661)から元禄13年(1700)の40年間で164基が建てられる。
初期の石塔には女子救済の思想を反映するかのように女性の為に建てられたもの、夫婦連名で1基というケースが非常に多く、親が亡くなったから子が建てたというものでなく、亡き妻の来世の安穏を願って夫が妻に建てたものである。また、3,4名の連名もあり、これは幼少のころ死亡した子とせめてあの世で一緒になろうとした親の気持ちが表れている。
従来、父親から息子へ家督が継承される「家の制度」の成立と関連づけて、子供が家督を譲ってくれた親の為に石塔を建てて先祖を供養すると思われてきたが、実際の初期石塔をみたかぎりでは、夫婦が不安な来世を仏のもとで一緒につながっていたいと思う気持ちから「自ら」が建てたのである。
・1700年から墓石供給業者が墓石のトレンドを主導するようになる。1770年には大阪に石問屋仲間が結成される。墓石は型式・碑文・材質の変遷を追うことで文献資料を補う歴史資料となる。
・納骨堂は先の大戦で大量に発生した遺骨を安置するところが無く寺が預かったのが始りで、それ以前には存在しない。
鳥取県東郷湖近隣の村の事例:最近までどの家も墓は無く(児玉識「真宗地帯の風習」『日本宗教の歴史と民俗』1976)、湖の岸辺にあったヒヤ(焼き場)で火葬しほんの一部を西本願寺大谷本廟に納骨するためにとっておくだけで、残りは全部湖中に投棄していた。
・火葬と風葬では拾骨における執着がかなり違う。
・「親の死に目に会えない」の民俗的な言い伝えの真意は「親より先に死ぬ」
・野辺送りの「棺担ぎの履いた草履」は穢れているが、脱ぎ捨て他人が拾えば「縁起物」で履けば足が丈夫になると云う。
・貨幣=ケガレ=死:手切れ金、退職金
ニホンザルは死を理解していない。