雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り

雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り

http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/read007.htm
http://ko1sato.air-nifty.com/sekijou/2006/12/post_d218.html
・雑兵とは:1)倅者(かせもの)・若等・足軽=主人(騎馬武士)と共に戦う「侍」、2)その格下で中間・小者・あらしこと呼ばれ、主人の馬を引き槍を持つ補助戦闘員である「下人」、3)夫・夫丸(ぶまる)=村々から駆り出されて物資を運ぶ「百姓」
・(イエズス会)上司のフロイス評価は「誇張癖があり、口の軽い男」
・(秀吉)日本人を買って奴隷にするな!、(イエズス会コエリュ)じゃ、売るな!
・「秀吉の平和」で国内戦場が閉鎖されると「韓半島」、「大規模城普請」が雑兵の稼ぎ場になる。
・侍は武士では無い:武家の棟梁の親族は「1門」と呼ばれるが、身内も増えると若等・足軽など「侍」に降格した。
・六十人打死、肝付の人を取ること四百人余り、
・打取り=戦闘で首を取る、生捕り=戦争捕虜、乱法(濫妨)=人畜家財の略奪や放火
・雑兵には恩賞が無いので「乱取り日」に得られる人畜物資が従軍動機
・身代金2〜10貫文(勝山記)、小栗判官の照手姫は1、2貫文、中世奴隷論の磯貝富士男氏は中世人相場は2貫文、館の妻女の買戻しに100貫文(九条政基「旅引付」)、小田氏治の常陸小田城を落とした長尾景虎は小田城下で春2月から3月にかけて20〜30文(中世相場2貫の1%)の激安市、ルイス・フロイスによれば島津軍に捕られた人の値段は1、2文、2束3文で更に安い
・放火・苅田乱取りは雑兵の手柄(稼ぎ)
天正16年人身売買停止令は統一政権の粗法に倣ったもの。
・秀吉は大陸遠征での「人取り」を予想して予め禁止令は出してはいるが誰も守らなかった。武士は表向きは人取りはせず「雑兵」の略奪からピンはねした様子。別に外国・朝鮮人だから特別に「濫妨狼藉」に及んだのではなく、日本国内の戦争慣習が普通に行使(輸出)されただけである。
・サルミ・テルマ・カクセイ:コブンカクセイボトラオラ=美女を連れてこい
・1598年イエズス会奴隷売買者破門令決議には以下の告発文がある。
”長崎では朝鮮人が酷い安値で売られている。これは日本商人(海賊)がポルトガル人に転売して巨利を得るために戦争捕虜として連れ去られた朝鮮人を日本各地で買い集めたものと自ら略奪したものである”
・1590年代長崎・平戸は世界有数の奴隷市場
・文禄・慶長役の半島捕虜は島津領薩摩だけで37000、徳川政権が国交回復のときに故郷へ帰れたのは朝鮮側「李朝実録」で5720人、諸記録混ぜて7500人
・中世刑事事件の犯人が死刑となると財産・権益は「検断」を行う者の手中となる(御成敗式目46条)。実行者は「乱妨衆」と呼ばれた。
・乱妨衆:応仁の乱の頃「骨川道賢」という足軽は普段「獄吏の手下」をしていたので、「盗賊」の動静に通じており「目付」と自称、300余人の手下を引き連れ京の町をのし歩き、戦とあれば蠅の様に現れて敵の糧道を断つに活躍したという。
・越後の出稼:長尾景虎が関東に度々出撃したのは二毛作不能の越後地での端境期に口減らしをする必然があった為。
・千葉県松戸の日蓮宗本土寺過去帳1394年〜1592年の4367人が死亡したのは春先から初夏にかけて集中
・戦国時代の大名の軍隊は兵農分離が未熟なので普段百姓が本業の武士は忙しい農繁期には戦に出られないというのが「俗通説」であるが、端境期でないと充分な「傭兵」が集まらなかっただけである。
・「三河物語」の譜代の野良仕事、「土佐物語」の一領具足は武士が百姓仕事までして苦労したという(異常な状態)話だから印象深く成功している徳川草創の神話であり、兵農分離が現実だったのである。
・ドイツ中世の農民は食えないから仕方なく傭兵となり略奪に没頭した。やがて農業だけで食えるようになると、ことに農繁期には戦場に行くのを嫌うようになる。
一騎当千の下人:武士を装う「渡り奉公人=侍」には手下が下人1人などのケースが多った。武士の「格」は奉公人の数なので、従者1人の侍が悔し紛れに言ったセリフが「俺の配下は一騎当千の兵」
・下人・倅者が主を跨ぐ(複数の主を持つ)のは一般的だった。奉公人の方から主人に愛想をつかして渡り歩いたケースがある。「中間共駈け落ち候」
・古代王朝時代の国司郎党が傭兵の典型らしい。「同類」とは「不善の輩」と呼ばれているので傭兵を指す言葉だったかも知れない。
・半手において商売:戦場において双方の陣営で食糧・武器弾薬を売り生捕られた男女の買戻しで暴利を貪る死の商人
・城あがり・山あがり:篭城するか山に篭るかは同じ領内でも村によって異なる。村毎に判断していた。
・安堵を買う半手・半納の村:半手・半納は村が自ら選択した。理由は何れの領主に帰属しても「二重取」は避けがたく、村をセリにかけて領主双方に競合状態が発生する方が得策だったからである。
・「庇いの制札・還住の制札」は乱暴狼藉・放火・非分から逃れる為の「安全保証書」永楽銭で3200枚(上の村の値、中は3分の2、下は3分の1)別に筆功料200枚、御判銭(秀吉の朱印代)は時価取次銭(口利料)は取らずで、どうやら家来の中間搾取封じる目的。
・浪人停止令:浪人の「人掃い」が目的、この「浪人」とは主人を失った「武士の面々」のことではなく、「侍・中間・小者・あらしこ」等の身分で仕える主人を持たないで田畑を耕さない者。浪人(牢人)は質量とも圧倒的に武士ではない「侍・下人」の身分が多かったのである。
・ラッパ・スッパ、悪党・海賊・山賊、夜走・夜盗、等の「渡り奉公人」は城敵陣に夜討・忍討をかける輩として不可欠。
・ヤシ(薬師・香具師)の起こりは野士=野武士、毒殺のプロが「薬売り」
・1590年、辻切・スリ・盗賊停止令:対象(原因)は豊臣大名の侍(足軽・若等)と下人(中間・小者・あらし子)にあった。5人組・10人組の制を布いて、奉公人に連帯責任を負わせること何とか収束した。
・「小指を切り、追放すべし」:5人組・10人組に連判しない者の措置である。武家(渡り)奉公人の世界からの排除の烙印であり、やくざの指きりの原型がある。
・1594年8月24日に三条橋の南河原で石川五右衛門が処刑された事実がわかるのはイスパニア商人アビラ・ヒロンの記事とイエズス会のペドロ・モレホンの記事注釈による。スリ・強盗とは「誰かの財布を切るため人々を殺害する輩」なので石川五右衛門は強盗殺人集団の頭領
・人を置く=人を雇う、中世の海賊は海の侍
・1584年にイエズス会のカブラルはスペイン=ポルトガル王に日本人奴隷・傭兵を使って中国を征服すべしと進言している。1592年マニラ市外の日本人町(区域)に隔離されていた日本人奴隷と傭兵は1603年に発生した中国系住民の暴動のとき四〜五百人が総督に雇われてこれを鎮圧、その後原住民の反乱鎮圧にも利用され、自らも暴動を起こした。1620年マニラ近郊の日本人は3000人。日本人の日常:少年は盗み、少女は売春。
山田長政:元は徳川方大名の大久保忠佐の六尺(籠を担ぐ下僕)
1616年2月(元和2年正月)平戸にて「バンタン到着後、3ヵ年連合東インド会社の水夫・兵士・その他に服す」契約を交した大阪出身のクスノキイチエモンを頭人とする日本人59人の傭兵名簿には切支丹洗礼名の者13名、姓・名を持ち侍を連想させる者3名、格式ある衛門や兵衛(官途)の付く村のオトナ百姓を想起させる者13名、残り30名はロクゾー、トメ、ヨサクなど小百姓

「ごろつきの話」折口信夫
「略奪の法観念史」山内進