描かれなかった十字架―初期キリスト教の光と闇

描かれなかった十字架―初期キリスト教の光と闇

描かれなかった十字架―初期キリスト教の光と闇(再読)
・聖書は最も知られてはいるが、最も読まれない書物:アメリカ中西部のある保守的な教会牧師が行ったアンケート調査では千人程の会衆が皆「十戒」という名称は知ってはいるが、誰1人として「1項」たりとも書けなかったという。
カタコンベの石棺・壁画:
カタコンベは1世紀に始まり4世紀で最盛したが8世紀には完全に廃れる。発見は1598年、キリスト・ユダヤ教徒の専有物ではないあらゆる階層が使用した普通の墓所で、「死者を市中に埋葬・火葬しない」ローマ法の為。
・紀元後250〜300年時期に造られたローマ市内サンクタ・マリア・アンティクワ教会所蔵の石棺レリーフにはヨハネから洗礼を受けるイエスが「幼子」として彫られている。これは浮き彫り職人と注文主が共に「福音書」の記事を知らないことを物語る。
・イエスがチュニカ・パリウムをまとった犬儒派風哲学者として描かれた壁画は8例
ギリシャ語で魚=イクトゥスは「イエス・キリスト、神の・子・救い主」の単語頭文字と同じ。「魚のブローチ」を着けていればキリスト教徒。
・ローマのユダヤ教徒カタコンベにある墓碑銘の7割以上がギリシャ語で、残りがラテン語、稀にへブル語がある。名前もユダヤ人でありながら半数以上がラテン名、残りの8割以上がギリシャ名。
・3、4世紀のカタコンベには「十字架に架けられたイエス」、「復活したイエス」は何故か描かれていない。
・マリア信仰が盛んになるのは11世紀後半から。「聖母マリアの謎」石井美樹子
・ヨセフとマリアの間に性的関係がなく精霊による身ごもりならば2人のダビデアブラハムに連なる系譜など無意味であるが、このマタイ作者の福音記事が後世の教会教父を悩ませることになる。
・サムエルを生んだ不妊のハンナ→「マリア賛歌」ルカ1:46-55
・マタイ福音の系図が正しければヨセフの父はヤコブ、ルカ福音ではエリ、マタイによればダビデの子はソロモン、ルカではナタン。
エウセビオスは「教会史」3巻27章で「エビオン派」を「イエスはヨセフとマリアの性的関係で生まれ、徳を積んで義とされた貧しい普通の人」という「低俗な見解」を持つ1派としている。エビオン派以外に同様の人物として「テオドトス」がいる、彼は教皇ビクトル1世(没年198年)に破門されている。
アレキサンドリアユダヤ人:100万中70万人(?)も居たという。
「ロンドン・パピルス1912(アレキサンドリア市民宛の皇帝書簡)」によれば「アピオーンへの反論」で「古くからユダヤ人に市民権があった」とするのはヨセフスの嘘。
・ガイウス・カリグラ統治38年のアレキサンドリアギリシャ系住民による未曾有のユダヤ人迫害(未だこの地には非ユダヤキリスト教徒はおろかキリスト教徒も存在しない):
37年7月アグリッパ1世がユダヤ王に使命され、ローマからユダヤに向かう途中アレキサンドリアに短期滞在する37年8月に起こった。アグリッパが町に上陸したのを知ったギリシャ系住民はカラバスという知的障害者に王衣・王冠をまとわせてステージに上げ、アラム語で「わが主君」と呼びかけた。これはユダヤの新王アグリッパを侮辱する行為だったが、アレキサンドリア総督アウイリウス・フラックスは黙認したので、調子にのった群集がユダヤ人のシナゴーグに押しかけて新ローマ皇帝ガイウス・カリグラの像を設置した後、暴動となりユダヤ人街で略奪・殺害が発生し多数のユダヤ人が財産・生命を失う。収束まで1月を要した。
この事件で、総督フラックスはカリグラ帝の命令で逮捕されアンドロス島に連行、40年に処刑される。
ユダヤ人は陳情代表として「フィロン」をローマ皇帝の下に送るが、ギリシャ系住民も対抗上使節として「アピオーン」を代表として送った。フィロンアウグストゥスユダヤ人に保証した諸特権(皇帝崇拝の免除等)の確認を求めたがカリグラ帝は訴えを無視してユダヤ人の恨みを買う。オマケに陳情団が帰国するとき、エルサレムの神殿内に「皇帝像」を新設する命令を出してユダヤの地が騒然となる。41年1月カリグラが護民官カイレアスに謀殺され、新皇帝となったクラウディウスは勅令を出してアレキサンドリアやその他のディアスポラユダヤ人の権利と特権を保証する。
アレキサンドリアディアスポラユダヤ人的な生き方」:
1)食事規定の為、会食を拒否するのがつき合い悪いとなる。2)安息日を取るが、2000年前に週に1度休むのは「怠惰な奴ら」と見られた。3)シナゴーグに集まるのを謀議と疑われる。4)独自の暦で祝祭を祝うが、無神経にもエジプトの地で過越し祭(ファラオが悪役)を祝いエジプト住民の神経を逆撫でする。5)教育レベルが高いので低学歴に嫉まれる。6)他の共同体と一緒に暮しているのに自分達の掟と法を優先する。7)土地の神々を拝まない、犠牲を捧げない、そもそもエジプト人など眼中に無い。8)君主崇拝・皇帝崇拝をしない(何故かしなくてすむ)。
・「バビロニア・タムルード」によれば1世紀のエルサレムには60以上のシナゴーグがあったという。安息日に歩く距離まで決められていたので相当数が必要だったのである。
・マルコ12章の税金は66年以降、13章の神殿崩壊は70年以降の記事、ユダヤ戦記の引用か?
・第一次ユダヤ戦役での対ローマ「宣戦布告」は「反ローマ派閥」が1日に2回エルサレム神殿でローマに対して捧げていた「犠牲」を中止して、ローマへの「納税」を拒否するよう民衆を扇動したことが「属州叛乱」と認定された。このとき慌てたサンヘドリン議員は自らローマに対する献金の工面と税金集めを行う。

・ヨセフスは「ユダヤ古代誌」では資料の出所を可能な限り列挙にしているのに、何故か「ユダヤ戦記」では全く資料の所在を明らかにしない。(当然の様な気がする?)
・「ルカ」のはしがきには「私達の間で実現した事柄について、既に多くの人が書いている」と述べているが、ルカ以前には「マルコ、マタイ」の2つだけで「多くの人」とは云わないだろうから、我々の知らない「福音書使徒行伝」が相当数あったのである。
・「はじめに言葉があった・・・」でイエス・キリストの誕生を天地創造前に遡及している。
・「トマスの福音書」を5番目の福音に値するとする議論は欧米研究者にはある。
・モーゼ像に「2本の角」が生えているのはヘブル語の「カーラン=光線」をヒエロニムスが「角」と誤訳した為だが、10世紀以上も放置された。
・17世紀に「汝、姦淫すべし」と書かれた「聖書」は1000万クラスの希少価値
・ラテラノ会議採択の「決議68」はユダヤ人の服装をサラセン人と同じくオリエント風にしてキリスト教徒との「性交渉」を避けるため。
プトレマイオス朝の御用歴史家「マネトーン」は「アイギュプティアカ(=エジプト史)」を、セレウコス朝のベーローソスは「バビュロニアカ」を著わして「ドッチの歴史が古い合戦」に勝利しようとした。
ところがこの「アイギュプティアカ」(「アピオーンへの反論」からしか言説を知りえない)には
(一)ヒュクソースのエジプト支配(前1790〜1700年)の後、テーベや他の地方の王達がヒュクソース(「王の羊飼いたち」の意らしい)に対して起こり、ミスフラグムートーシス王の子トーモーシスの時代(前1580〜1310年の初代王アモーシス同定される)になされた和平の取り決めに従い、24万を超える羊飼いの民は出エジプトを挙行し、現在ユーダイア(ユダヤ)と呼ばれている土地に入り、そこにポリスをつくりヒエロソリュマ(エルサレム)と呼んだ(『アピオーン17巻75-90節』)。
(二)アメノーヒスの時代、エジプトの王国の採石場にはレプラ患者やその他の汚れた者たちが集められていたが(8万人)、彼らはヒエロソリュマに追放されている羊飼い達と合同してエジプトへの遠征を行い数々の蛮行をする。これらエジプトの廃疾者たちが服したのはヘリオポリスにある神オシリスに因んで、オサルシフォスと呼ばれていたが、この民族の仲間に入ったとき、その名は改められて「モーセ」と呼ばれた男だったが、このモーセが廃疾者のもとにいたのは、彼自身がレプラ患者であってヘーリオポリス(「出エジプト記」のオン、カイロの北東8キロ、現在のテル・フスン)から追放されていた為である(『アピオーン17巻232-250節、254-287節』)。
要約すると”ユダヤ人の先祖はエジプトに侵入してその地を追われたヒクソスとエジプト人不具廃疾者でモーセは元ヘリオポリスエジプト人(祭司?)でレプラ患者。”とアレキサンドリア在住のユダヤ人には都合の悪いこの記事に反駁する為に「モーセ五書(律法)ギリシャ語翻訳=70人訳」を作ったのであるが、ギリシャ系住民にこの律法が読まれることはまず無かったろう。代わりに、ヘレニズム都市のユダヤ人植民者2,3世の多くがこのギリシャ語律法(トーラー)の読者となり、律法の次は「預言者(ネイビーム)」の翻訳がでると「イザヤ、エレミヤ」にある救世主の予告を真に受けて「キリスト教」を誕生させる下地が出来たのである。(後にキリスト教徒はこの「ギリシャ語翻訳」こそ神の霊感により書かれた「ヘブル語原典」に勝る聖書とする珍奇な主張をすることになる)
シナゴーグ(当時は多分「プロセウケー=祈りの家」)では「律法」を(1節?)に3回、「預言者」は1度の唱和と律法重視であったこともあるが、ラビが唱えるヘブル語は孫の代位にもなると「坊主のお経」感覚で聴くしかなく、ギリシャ語翻訳がでるまで「預言者」の内容など一般には理解されていなかったのだ。
・70人訳の「創世記」と「出エジプト記」は2人が翻訳、質と技法から類推して内1人が創世記の全章と出エジプトの大半を請負った。死海(写本)では「創世記と出エジプト記」が合本されていた様子。エルサレムから72人の長老をアレキサンドリアに招いて翻訳させたことになっているが、訳者はユダヤの地理に詳しくない、エルサレム市街に1,2度巡礼に行った位だろうという。
http://www.geocities.jp/kmt_yoko/JewsChristianity.html