日本文化の形成 (講談社学術文庫)

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

・毛人(エミシ):蘇我豊浦毛人(=蘇我蝦夷)、佐伯今毛人(平安京造成で功績)、小野毛人墓誌にある)と「エミシ」が必ずしも「卑称」だったとは言い切れない。毛深い人だったかも?
宮城県栗原郡栗駒町(旧沼倉・松倉の2村)の昭和30年11月調査で沼倉村は1641年に戸数42軒、1777年には157軒人口893人1戸平均5.7人であったが、5代以上続いた家は16戸のみで開始42戸中の残り26戸は絶家・退転して、後から移住者により充足したのが解る、1868年には142戸に減っている。
下北半島では天明飢饉(1783年)のとき尻屋、尻労、岩屋など半島東北隅のムラはほぼ全滅し、無人の境となったが別の場所からの移住者が無人の家屋に住み着き(これを「イセキ=遺跡、一跡」を継ぐという)絶家・絶株の跡を継ぎ「家は古いが自分達は血のつながった子孫ではない」という。
・宗門人別帳で元禄(1677から1704年)頃にあった家が現在まで継続しているのは「1割未満」である。凶作などで死に絶えた家があるとどこかの次男、三男が入って跡を継いでいるらしい。近世の大名領国制の厳しい管理下で移動が著しく制限されたにも関わらず、住民の移動はあったのである。
縄文土器:魚肉・獣肉は焼いて食べた方が旨い、土器を必要としたのは煮る食べ物が多かったことによる。「貝塚と食料資源」金子浩昌1965年
・古代列島はエビス、土蜘蛛の住まう地
・初期の稲作遺跡は「乾田で短粒米」
・梁の元帝時代(552から554年)の「職貢図巻」には頭に布を巻き、手甲脚絆、裸足の「倭人使」が描かれている。
・秦人(ハタビト):平城宮址から発掘される木簡(庸調と呼ばれる貢納物に附けられた荷札が多い)には品目・数量・貢納代表者名・居住地・年代が記されているが、「秦姓」ばかりである。百姓(生産者)の代表として全国津々浦々に居ても明らかに区別された存在だった。名称の由来も「焼畑」から始る初期の管理農法を持ち込んだことによる。
・土間:明治維新の頃秋田・山形では6割が土間住まい、越前大野付近では名主の家でも土間住まい。昭和40年長野県奈川村(乗鞍東麓)を調査したとき、明治5年には全村土間住まい、床のあるのは名主の家と旅館2軒のみと報告されている。しかし、明治16年には床の無い家は殆ど無くなったという。
・貴族の出身は船上生活者:古来農村は土間が基本であるが、漁労民家では板敷きなのである。
大和法隆寺東院境内、夢殿の北にある「伝法堂」は橘夫人三千代(藤原不比等の夫人)の家であったというが正にガラン堂。「源氏物語絵巻」に描かれる寝殿造りでは、住居内外の障壁は「御簾」を垂らすのみ、寒いときでも御簾の内側に「壁代」という白い布を垂らす位で、間仕切りも御簾・壁代のみ、これらは大陸東北や半島北等の「北方系民」とは全く異なる住居環境である。
神の祭祀に直接たずさわる者を「殿上人」と呼んで「地下人」と区別した。床の上で生活し、外出する時は牛車にのって、可能な限り「土」と接触しない様にした。これは平安時代には穢れを恐れてのことになるが、「筏舟」に板を敷きならべ生活した「舟住居」時代の名残で陸住してからも暫く癖が抜けなかったのかもしれない?