武士と世間 なぜ死に急ぐのか 中公新書 1703

武士と世間 なぜ死に急ぐのか 中公新書 1703

武士と世間
・武士の一分が立たぬとは他者の視線を気にすることで、けっして自己の信念・規律に基づくものでなく、主君への忠義でさえ二の次であり、藩や上司から禁じられても身勝手に腹を切った。他人の目=世間体が最優先だったのである。
・殉死しなければならないケースは主君から特別の恩を受けた者で1)衆道の間柄、2)特に目をかけて貰い異例の出世をした、3)過去に罪を許された者、4)主君から恩を受けていた様に思われたい為、5)死にたくないが殉死が当然と敵対者や他者に死ぬのが当然とばかり陰口されて追い込まれる場合がある。4)はバカで微笑ましいが、5)は本人才能・努力で立身出世しても嫉妬・噂話が左右するので気の毒ではある。
・家柄により家禄を得ている家老クラスの重臣は主君から特別に引き立てられた訳では無いので殉死はしない。身分の高い者が殉死したときは衆道の間柄である場合が多い。
森鴎外の「安部一族」は史実ではなく後世成立の「安部茶事談」という虚構(安部一族は死に絶えていたので何でも書けた)をそのまま書き直したもので、史実の「安部弥一右衛門」は他と同様に殉死している。「殉死の構造」
・殉死を決意して思いとどまる者は殆どいない。また、その家族も邪魔はしない。
・武士の名誉は「手柄」を上げるのが最上だが、それに劣らず賞賛されたのが「討死」で敵陣に首が晒されるのが本意
徳川家光島原の乱鎮圧の際に、板倉重昌の戦況に全く影響のない討死の報を聞いて「猪武者」と罵倒し不機嫌だったと伝えられる「沢庵和尚書簡集」、家光の様に理性的な思考の方が当時は珍しかった。
・1600年から大阪の陣までは、思慮無く無駄死にであろうと「御馬先で討死(主君の眼前の戦死)」が最良の名誉で、勝ち負けは二の次。
・殉死は1607年尾張清洲藩主松平忠吉に殉じた稲垣将監を皮切りに流行する。それまでは主君と男色の関係にあった小姓たちが殉死していただけであった。
・「明良洪範」にある「義腹・論腹・商腹」は殉死者に対する中傷、中でも「商腹」で子孫が取り立てられるようなことは無く、後世の推測(邪推)である。
・「取沙汰」=民衆の評判、武士の評価
・男色者はたとえ子供であっても衆道相手(恋人)以外には肌を見せてはならない。
p141:山鹿素行の「山鹿語類」巻25「士談4」には「殉死しない者が陰口を非難する話がある」
・「武家義理物語」巻1の「衆道の友呼ぶ千鳥香炉」に死に際に昔別れた念者(衆道の年長者)を探し出してその念者と関係(男色)をもって欲しいと小姓仲間に頼む色小姓の話がある。
・「武道伝来記」巻5の「不断心掛けの早馬」には「義理」をとおしてお互いに遺恨の無い武士同士が命を捨てる話がある。
・命を惜しんだと思われるのがなによりの「不名誉」だった。