日本古代の氏族と国家
2:日本書紀神武天皇条=神武紀、古事記神武天皇段=神武記
3:欠史8代は8世紀初頭に成立したもの:欠史8代の後ろ3代(孝霊・孝元・開化)の和風謳号中の「ヤマトネコ」は7世紀末から8世紀初頭の持統・文武・元明・元正と一致する。6代の考安の「タラシ」も7世紀前半の欽明・皇極に一致。
3・4・5代の「ヒコ」を含む謳号は神(祭神が多い)であって人ではない。
6:7世紀の天皇・皇子・皇女の名には大和の県の地名と一致するものが多いのは、下級氏族出身の「乳母」のウジ名に由来する。
12:「崩年干支」崇神〜推古まで15人には崩年干支があるが、崩年干支が無い欠史8代を含めた天皇は602年までに知られていない存在だった可能性がある。
14:「陵戸・守戸」、天皇陵の守衛である賤民出身の陵戸は墳墓の数が増える度に十分な定数を増やす訳にはいかないので不足した陵戸の補助は良民(公民)から選定し賦役を免除して3年交代で補ったが、神武や欠史8代の天皇陵についた墓守は「守戸」5人であり、「陵戸」の枠が無くなった時代になって陵墓が決定したと推測するのは容易。<新井喜久夫「古代陵墓制雑考」(日本歴史222、1966年)
19:吉備氏の始祖は「孝霊段、孝霊2年条」では皇族であるが「応神22年条」には「苑臣祖」と古い時代には皇室と縁戚ではない。
25:有力豪族の「臣姓」氏族は欠史8代の皇子・諸王、中級の「君姓」氏族の祖は欠史8代を除く応神までの皇子・諸王、下級の「国造」氏族は神代の天照大神の系譜に含まれる神々及び神武の末裔が多い。
舎人の制、地方豪族が国造として朝廷の支配下に入り、帝紀旧辞の結集されたのが6世紀中葉。
28:天武8年(679)正月「諸王は王姓以外の母を拝んではならぬ。諸臣は碑母(自分より身分の低い母)を拝んではならぬ」の詔、天武11年8月には「孝選(勤務評定審査の後、官位を授与する)には族姓と勤務成績をよく審査して判定せよ。族姓が定まらなかったら、成績がよく能力があっても孝選の対象としない」の詔が出た。族姓が出身と姓なら血統・血縁が重視されるようになった。天武の母である斉明の血統が尊重されたのである。
29:「皇別・神別・諸藩」の分類は8世紀以降の社会を考える場合には有効だが、7世紀以前では有効ではない。臣姓・君姓いずれの氏族にも仁徳から武烈まで5世紀代に在位した天皇・皇子を祖として「選んだ」氏族はいない。
33:応神段に渡来した「王仁」の末裔が「文首」氏族
74:「日本捕虜志」長谷川伸、「捕虜の文明史」吹浦忠正
671年に2000人(内唐人600人)を率いて来日した郭務悰が連れてきた1400人は通説では百済人避難民とされているが白村江敗戦で捕虜となった倭人であり、甲冑・弓矢、絁1673匹・布2852端・綿666斤を郭務悰に渡して捕虜の交換を行ったのだ。
130:天武は唐に軍事的勝利を得た新羅を畏れて本気で「信濃遷都」を考えていた。
185:舒明〜天武2年に「斎宮」中止
190:第1次(ヤマト)朝廷=天照→第2次(河内)朝=高皇産→第3次(継体)朝=河内朝の応神を始祖として「高皇産」継続、天照は左遷・敬遠されていた時代には「斎宮」が送られていたが、壬申の乱復権した。
202:「攝津」は本来はツノクニだが津を管理する意味でついた政治・行政的な地名
230:僧旻・玄理の「国博士」の意味は倭人出身者初の「国産博士」という意味の名誉職で、それまでは博士と言えば異国(百済)出身者のことだった。「僧旻・玄理」の2人以後は特に呼ばなくなっている理由。