神国日本 (ちくま新書)

神国日本 (ちくま新書)

神国日本
p15:1937年文部省刊行「国体の本義」→「国体を明徴にし、国民精神を涵養振作」するために編纂されたこの本が以後「教育の基本精神」を定めた。「万邦無比の神聖国家」、「御稜威(みいつ)」
p17:「神皇正統記」娑婆世界の中心には「須弥山」があり、四方に大陸、南にある大陸を「贍部(せんぶ)」とよびこの中央に「天竺」、「震旦」は広いが天竺に比べれば「一片の小国」で、日本は天竺から離れた東北の海中にある辺境の子島(辺土粟散)。平安時代後期になるころは末法の世で、仏法が威力を失い救済に漏れた悪人のひしめく暗黒時代の穢土としての日本にあって厭世感を募らせていた。これが死後に理想の浄土へ往生を目指す「浄土信仰」が起こる思想的な背景。
p17:北畠親房は「十善の戒力で天子となっても善悪はさまざま」と天皇に成る為には過去の世に仏教の戒律を受持する必要があるとしている。
p32:大王(オホキミ)→天皇(スメラミコト)の称号変更は「現人神(アキツミカミ=明神)」の思想を生む。このとき皇祖神=天照の地位向上とともに他の諸氏族の神々の序列化・再編作業の結果が記紀(=古事記日本書紀)で無縁の氏神同士が結縁したりして、主要な神社は「官社」として登録され「2月の祈念祭」の折に幣帛(へいはく=神への供物)が下賜(かし)された。これ以降国家の干渉の外であった氏族の神々が1元的な祭祀体系に組み込まれ、班幣(はんぺい)の代償として天皇の為に祈る義務が生じた。
p35:大嘗祭=深夜に厳重な秘匿のなかで執り行われる新天皇が神々との結縁を結ぶ儀式。
p37:10世紀以降、口分田の耕作放棄律令体制の崩壊による官営社寺の財政援助が途絶された事を機に摂関家・大寺院(権門勢家)は自ら荘園獲得競争に乗り出す。一族以外には閉ざされていた寺社が門戸解放、集客(社参・参籠)に乗り出す。
・22社1宮制度
・八幡愚童訓、「くん」でなく→「きん」と読む??
p47:天照大神を念ずるようにとの夢告を受ける「更級日記」の作者(菅原孝標女)は天照大神が何処にいるどの様な「神仏」か知らなかった。古代の「天照大神伊勢神宮」は天皇家以外の参詣や幣帛を捧げることはタブーであった為に、地位は高くとも一般的な知名度は驚くほどに低かったのである。
p63:「垂迹」→神への結縁
p64:今日本は釈尊入滅後2000年の末法、天竺を去ること数万里の僻地、諸仏・菩薩はこの地に生まれた我ら衆生を哀れんで、我らを救いとるべく「神道」として「垂迹」されたのだ。もし神明が出現されることがなければ我々はどうして仏法と結縁できようか。神は現世の祈願を軽んじられても、真剣に世界からの離脱を祈るときは衆生を彼岸に往生させるという本懐を必ずお示しになる。−「源平盛衰記
中世では霊魂を浄土に届けるのは「神」の役割。
p66:古代の神は定まった姿を持たず、勝手気ままに遊行し、祭祀の祈りにその場に出現し、終われば立ち去る存在だったが、律令時代からの永久都市建設以後人の都合で都の主人である天皇を常時守護することになった。9世紀になると仏像を模範して「神像」が造られるようになり神が可視化・定住する。
p68:神の性格の変化ー「祟り」(人間に対する非合理な一方的な指示・命令)→「返祝詞」(奉献に対する神の返礼で王権護持を約束する内容、合理的な対話が出来る関係になる)、
「祟り」→「罰」:不可測・非合理な「祟り」から、人々に信心を要求して態度によって賞罰を下す存在になる。
・神社行幸の成立は天慶5年(942)それまで天皇自身が神社に直接足を運ぶことは無かった。
・中世では聖徳太子の本地は「観音菩薩」が常識、聖徳太子は「善光寺如来」と文通した対等の関係。
・堂舎に鎮座する仏像自体がこの世に化現した垂迹
伝教大師弘法大師法然親鸞などの聖人も賞罰の威力を有する垂迹と見られていた。
本地垂迹は単に仏と神とを結びつけるものでなく、認識不可能な「彼岸」の仏とこの世に「実在する」神仏との結合の論理であった。中世では救済を使命とする彼岸の仏(=本地)と、賞罰を行使する此土の神・仏・聖人(=垂迹)という分類が、当時に生きる人の実感であった。
・神仏序列:天部(仏教)→「梵天帝釈天・四天王」、(道教)→「閻魔大王・五道大神・泰山府君」、地部→日本の「熊野・大仏・八幡菩薩」等の序列
・鎌倉の高僧「貞慶」は「興福寺奏状」で「神祇不拝」を主張する専修念仏を批判して「権化の垂迹」を崇敬すべき必然を説く。
p94:古代的神国思想ー古代日本で神が守るべき国家とは「皇御孫の御体」で通常は天皇個人を指す。人民の困窮を憂うのは「国体=天皇」の衰弱を危惧してのことである。護国とは天皇を護る事に他ならない。
p96:月次祭新嘗祭など宮中祭祀では内裏への立ち入りを「僧侶」は禁じられた。藩神(仏)には護って貰いはすれど可能な限り「避けたかった」様子である。
p98:藤原行成の「権記」長保2年(1000)正月28日に中宮以下の関係者が皆が出家してしまい神事を務める者がいないことを嘆いて「わが朝は神国である。神事を優先する」とあるので、「神事」が蔑ろにされていた様子。
・「神道集」には「百八十柱の神をはじめ、一万三千七百所等の神」記述がある。
・「日本書紀」で神国日本と対峙する存在(仮想敵)は韓半島の「新羅
・日本国境は古代は陸奥(盛岡盆地の北辺)、中世には「外が浜」(陸奥湾海岸線)に変更、南は「鬼界が島」(硫黄島
・無住「沙石集」ー釈迦・孔子老子・日本の神々・聖徳太子等は皆「垂迹
吉備真備・寂照の留学生・渡航者が中国で苛めにあったとき「日本の神仏」が助ける話は幾つかある。
p146:法然垂迹を経由することなく、身分・階層に関わらずに直接本地の弥陀の本願に乗じて極楽浄土に往生できること即ち救済の体系から垂迹を排除した理論を展開した。−垂迹への帰依は百害あって1利無しー
p154:それまでライバル関係にあった宗門権門同士が「国家の敵」として専修念仏・神祇不拝の打倒に共闘した。
・黒田俊雄「権門体制論」
・三国史観(インド、中国、日本)では朝鮮無視、しかし、高麗の高宗王時代に開版された高麗版「大蔵経」は垂涎のまとで幾度か日本に寄贈された。
・中世の天皇は神国維持の手段であり国家主体では無く、不適格な天皇は退場させるのが当時の為政者の共通認識。
p166:折口信夫大嘗祭の本義」ー悠紀殿・主基殿の「寝所」は天孫降臨のときにニニギノミコトが包まっていた「真床襲衾」と解釈した、即ち大嘗祭の秘儀は寝床に引き篭もって物忌みをし、魂の入れ物である天皇の体に「天皇霊=天照のマナ」を満たす行為。
・即位灌頂:天皇大日如来に変身する儀式
・崇徳・淳仁・後鳥羽は「悪魔の棟梁」、皇極・醍醐は死後地獄で責め苦に喘いだ。
p178:中世天皇は幼少で即位元服前に退位した。天皇は国家体制の歯車の1つとなり、神々が護るべきはその支配体制全体となる。

(近世ー室町に興った吉田神道他の影響が観られる)
・わが朝は神国なり。神は心なり。森羅万象、ー中略ー ゆえに神をもって万物の根源となす。この神、竺土(インド)にありては、これをよびて仏法となし、震旦(中国)にありては、これを儒道となし、日域にありては、これを「神道」という。神道を知れば、すなわち仏法を知り、また儒道を知る。およそ人の世に処するや、仁をもって根本となす。(天象19年ポルトガル領印度総督宛秀吉書簡)
・そもそもわが国は神国なり。開闢以来、神を敬い仏を尊ぶ。仏と神と、垂迹同じくして別なし。(慶弔17年メキシコ総督宛徳川家康書簡)