マサラティーの作り方

 材料(2カップ分):
紅茶:アッサムG
   ティースプーン山盛り2杯
牛乳:200cc 水:50cc
カルダモン:2個 シナモン:2cm
クローブ:2個  ジンジャー:少々

  作り方:
1.アッサムG茶葉に熱湯(60ccぐらい)を
  かけて、3分くらい蒸らしておく。 (ポイント)

2.鍋に水、スパイス、ミルクそして3分蒸らし
  た茶葉を茶液ごと入れて、火にかける。

3.沸騰直前まで(ふわーっと吹き上がる直前
  まで)温める。

4.火を止めて、茶漉しでこす。

  お好みでグラニュー糖を少々入れるとコクが出ます。

http://matsuda.lolipop.jp/item/49/catid/1
完全引用↑

2005-04-23
天皇神道、仏教、キリスト教

 この文章の前段は西尾幹二氏の皇室観に小さな疑問を呈したところから始まっているのですが、そこでの記述はやや正確ではなかったので、改めてざっと調べた上でまとめ直してみました。内容としては、戦前の国家神道平田篤胤の思想をベースにしていて、神学的にはローマ帝国時代のキリスト教にきわめて近いという話です。
 まず、日本の神道といわれるものを戦前と戦後で形式的にわけると、

 戦前:
古神道(鎮守の杜など)
神社神道(かつては公務員、現在の神社本庁
皇室神道新嘗祭大嘗祭など)
教派神道天理教金光教黒住教など)

 戦後:
古神道(鎮守の杜など)
皇室神道新嘗祭大嘗祭など)
教派神道神社本庁天理教大本教生長の家、真光など)


くらいにわけられるようです。
 ちなみに、ここで問題にしている国家神道といわれるもの(これは占領軍が戦後、「神道指令」というものを出したときに使った用語です)、つまり戦前戦中の神道風国家体制は上記のうち、当時の神社神道皇室神道が合体したもので、教義的には平田篤胤の思想を元にしているようです。法的には宗教ではなく、国家的祭祀ないし国事行為です。神社の神主も戦前は教員と同じく非世襲の公務員でした。戦後は神社本庁として一宗教法人になっています。さて、この国家神道なるものの中心(信仰告白)は、アマテラスを皇祖と認めること、万世一系を認めること、天皇に現人神としての神格を付与することだったようです。これ以外はすべて不敬(異端)とされました。一見すると神道ですが、その神学的性質はのちに述べるように、かなりキリスト教に近いものです。国家神道は、明治維新から明治憲法発布までの20年という比較的短期間に作られた、いわば新興宗教のような神道です。垂加説、神人合一を説くという点では、同時代の大本教天理教とも共通しますが、どちらがどちらを模倣したのかはわかりません。



 もともと、天皇家神道と直接に結びつけられたのは最近のことで、明治以前は、天皇家が宗教として奉じていたのは、聖徳太子以来、仏教であり、ことに平安時代に嵯峨野天皇空海を認めてから、日本の国教に当たるものは事実上仏教でした。この場合、皇族といえども僧侶ではなく信徒にすぎませんから、自ら仏教の儀式を行なうことはできません。つまり、皇族が国家的になんらかの宗教的影響力をもつ、亜宗教的な存在と意識されるようになったのは、明治以降のことなのです。(だから「天子」や「帝」に宗教的ニュアンスは余りありませんよね)注1)また、天皇が隠居すると(むかしは生前退位が一般だった)、法皇や院という仏式の法名を名乗ったことからも仏教信仰がわかります。宮廷でも一般に仏式、神式が併用されていました。しかし、神式は宮廷儀式という性格が強く、信仰としてはやはり仏教だったようです。これは皇室の形式的家臣たる幕府も同じことで、こちらは禅宗でした。

 明治維新という幕藩体制へのクーデターが成功して、一刻も早い西洋化を図る新政府は、封建秩序と結びつき国教化していた仏教を廃棄することをもくろみました。黒船の影に怯える政府には、宗教的な是非などを悠長に斟酌している時間的余裕がなかったのです。まず僧侶の役人としての地位を剥奪し、ついで僧侶の婚姻を不処罰としました。これによって、経済的基盤を失った僧侶たちは、あらそって結婚に踏み切り、私財を貯え、還俗していったのです。もちろん急速に信徒たちの信頼を失いました。こうやって、まず仏教の破壊に成功した政府は、ついで皇室ならびに国家の神道化を押し進めていったのです。はじめは、そのままで神道を国教に据えようとしました。しかし、「西洋化」を押し進めているのに、中世の宗教国家のような体制では、ちと都合が悪い。欧米にも介入の口実を与える。そこで、神道は宗教ではないとする、国家神道(国事神道)体制がでっちあげられたのです。注2)

 しかし、これはよくよくみると、西洋の絶対君主制神道のフレーバーで飾ったものにすぎず、日本古来の神道とはかなり異質なものです。全国の神社をヒエラルキー状に積み上げ、これを国家の管理下に置き、神主は神官化して、その頂点には現人神の天皇が鎮座する。この体制に一番近いものは、ローマ帝国時代の国教キリスト教下での帝政です。ここでも聖職者は神官かつ役人であり、皇帝は教会の権威に依存しておらず、むしろ教会を所有し統括する皇帝が神とされました。注3)平田篤胤ローマ・カトリックの神学を参考にしたと言われます。だから、西洋人が天皇を" Kaiser "(皇帝)と訳すのはわりと当たっているのです。国家神道において、天皇家の皇祖がアマテラスとされたことは、この太陽神としてのローマ皇帝を、万世一系はのちのローマ教皇による使徒継承を、さらに大戦中の現人神は、キリスト神の子説や救世主観念を思わせます。また、太平洋戦争中に国家神道体制に協力する宗教者が目立ったのは、浄土真宗日本キリスト教団でした。これら三つは親和性がかなり高いのです。注4)

 これはけっして偶然ではありません。もともと明治政府が西洋の植民地になることを恐怖したところから生まれた体制であることから、キリスト教流入をふせぐことは自明でした。キリスト教に対抗しつつ西洋化を押し進めるには、キリスト教と等価な神道を作る必要があったのです。このキリスト教式神道は、日々、西洋の学問の導入に邁進していた明治の知識人たちには受けました。それは西洋化しようとする日本人の精神を支えるにはぴったりの神道だったのです。これが宗教ではないと強弁されたことはかなり奇妙だけど、この点は西洋もその歴史を辿れば、似たりよったりです。日本では世界宗教である仏教と民族的宗教感情である神道は別個に存在していて、前者を破壊して後者を世俗宗教化する道を模索しました。ただし、この世俗宗教は破壊されたはずの仏教的意識の強いものとなりました。西洋では、その逆をやっただけです。その結果として、各国には民族的感情の混入したキリスト教が生まれました。そして、この制度宗教は世俗とは別、つまり政教分離だとされたのです。宗教的なものがやはりあることには違いありません。


 西尾先生の主張を聴いていると、私の父親世代によく似ています。私の父親よりはすこしお若いはずですが、終戦時に中学生より上だった世代は、神道や神社が異常に好きです。家には必ず神棚があり、正月には拍手を打ったり、オミキを上げたりしないと気がすみません。いまも戦中の国家神道に完全にやられているのです。この体制にかつて命をかけたわけですから。そして、仏教をひどくバカにするのです。坊さんが来ても、ろくに挨拶さえしようとしません。仏壇の前に座っているところなど見たこともありません。

 一方、祖母に当たる世代だとまったく逆で、こっちは仏教一辺倒です。神社には冷淡です。うちは真言宗だったので、ばあさんは坊さんを超能力者だと思い込んでいました。坊さんと話すのが至福の時間のようでした。また、私の子供のころにはまだ結婚してない坊さんというのが珍しくなかったのです。だから、子供心にも、坊さんが家に来ていると、なにか普通と違う人間が来ていると恐かったものです。前出の父親は坊さんなんて堕落した人間の極みだと言わんばかりの態度で、裏庭で自分で作ったお稲荷に拍手を打ったりしてました。その後、仏教はほんとに滅んでしまいましたが、われわれの宗教的な心象風景は基本的にはあのときのままなのです。



注1)天子という言葉には、もちろん多少の道教的意味合いはあります。ちなみに、天皇という称号は中国では唐代の皇帝のみが名乗りました。国家神道以前では、伊勢神宮のアマテラスも天皇家氏神(守護神)にすぎず、まだ直接の皇祖とはされていませんでした。だから、神道的な意味合いでの聖性はかなり小さかったのです。また、アマテラス皇祖説は仏教においても、弥勒菩薩(太陽神の子ミトラ)を使えば可能ですが、それがこの時代に行なわれたかどうかはわかりません。

注2)現在も残る国家神道的な施設で、もっとも特徴的なものに靖国神社があります。これは本来は制度的には神社ではなく、陸海軍省管轄の軍廟(別格官幣社)でした。つまり、アメリカ陸軍のアーリントン墓地(ここの軍廟も遺体はほとんどないshrine方式)と全く同じ国家施設だったわけです。ところが、戦後は国家神道が廃止されたところから、単一宗教法人になってしまいました。いわば国のために死んだ英霊たちが、一民間施設に預けられているという奇妙な事態になっています。これを再び国有化することは可能でしょうが、そうなると「神社」という名称はもはや付けられない。彼らが命を捧げた国家神道なる国家思想と切り離した形で祀るのが、はたして適切かどうかという問題があります。

注3)ローマ帝国では、キリスト教化以前から皇帝が法王pontifex maximusと呼ばれる宗教上の最高位を兼ねていて、太陽神の化身として神格化されていました。コンスタンティヌス大帝によるキリスト教公認(4世紀)後、これを形式上は教皇pontificatusに譲りましたが、事実上は教会の首領のままでした。この考え方は14世紀のドイツ神聖ローマ帝国皇帝あたりまで続きます。よって、当時のローマ皇帝は皇帝かつ法王だったのです。(ビザンティン帝国の皇帝やロシア帝国のツァーも同じ)

コンスタンティヌス帝と太陽神が描かれた金貨(310 A.C.)

注4)ここでいう親和性とは、対抗カトリック勢力であること、浄土真宗プロテスタンティズムともに僧団宗教から派生した世俗の信徒運動であること、を意図しています。また、真宗が仏教にはめずらしく死後の救済を説く点でもキリスト教神道と共通しています。一方、独自のキリスト再臨を説いたホーリネス派は、天皇制を否定するものとして弾圧されました。
 真宗の戦争協力についてはよく知らないのでパスしますが、日本キリスト教団のそれは比較的分かりやすいです。この教団に合流した教派にメソジスト教会(わが母校関西学院)があり、ここはもともと規律ある生活メソッドを信条としているせいか、軍隊やチームスポーツ(アメフト)と相性がよく、かなり好戦的な教派です。国策には一般に協力的。米国でも南北戦争の際には教会自体が南北に分かれて戦いました。あのブッシュ大統領も熱心なメソジストであるといえば大概分かるでしょう。ですから、クリスチャンであるからと言って、日米戦争の際に敵国に加担するようではメソジストっぽくないわけです。他には改革派(明治学院)の協力が有名ですが、こちらはよく分かりません。基本的にプロテスタンティズムには自国政策に協力する傾向があります。ちなみに、カトリック教会も靖国参拝は認めていました。バチカンがドイツと条約を結んでいたせいもあるでしょう。実は、当時の日本には反戦勢力はほとんどなく、社会党系も「天皇ばんざい!」を叫んでいましたし、共産党は早くから壊滅状態でした。