騎士道とジェントルマン―ヴィクトリア朝社会精神史

騎士道とジェントルマン―ヴィクトリア朝社会精神史

P7:1852年バークンヘッド号遭難
P14:行儀の悪いのは誰でも南欧あたりの外人だと証言するのはアングロ・サクソン人の癖。
実際の割合では3等客船の子供より1等2等船室の大人の方がタイタニック号から多く生還している。(4隻の救命ボートは人員未収用前に破壊されたが)1100名の定員で651名しか救っていない。
P16:中世騎士は残忍で短気、自己中であっても理想は存在し、その価値は認められていた。
P17:最後の馬上鑓試合は1624年
P19:騎士道文学の掲げる徳は18世紀の風潮では、気高いというよりも愚かしいと見なされた。ヒュームは「大英帝国史」(1761年)で「いかなる時代や国家においても、十字軍ほど卓越して永遠なる人間の愚行の金字塔はいまだかつて建てられたためしがない。」と騎士道的精神の所産の代表格である十字軍を酷評している。
しかし、30年後エドモンド・バークは「フランス革命の考察」でマリー・アントワネットの死を嘆いたが、「大英帝国史」と「フランス革命の考察」が書かれた30年余りの間に中世は次第に息を吹き返し、それと共に騎士道も復活してきた。奇妙なことに18世紀という理性と知性を重視した時代に、このような状況が生じ易くなったのである。
P22:ジョージ3世は直感的に昔の組織、とくに英国国教会君主制に敬意を払い、変化を嫌った。彼は民主主義の進展を拒み、国内では出版の自由を、国外では植民地の自治を認めようとしなかった。治世の前半にジョン・ウィルクス事件をめぐる茶番劇やアメリカ独立戦争で蒙った完全な失敗で、英国の制度改革を望むものには甚だ不人気だった。
フランス革命は英国臣民の革命に対する見方に変化を与える。なかでもルイ16世マリー・アントワネットの処刑は社会変動と改革への嫌悪を生み、既存の権力と制度に有利に働く。バークやピットは初め左派で登場したが素早く右派に転進する。
1793年に対フランス戦争が開始されると民主主義は迫害され労働者階級の不満は容赦なく弾圧された。トーリー党は右傾化したホイッグ党と組んで19世紀の保守党を形成する。
海峡を超えた隣国で彼等と近い階級が首をはねられことに憤りを感じた貴族やジェントルマン、聖職者にとっては中世が急に魅力のあるものになっていったのである。
P30:ウォルター・スコット
P40:現有者不在の男爵位を取得する「男爵位の復活」が最も盛んだったのが1830年
P56:ケネルム・ヘンリー・ディグビー
P150:ヴィクトリア朝中流階級はかつては土地持ちのジェントルマン階級出身であったが、ある時期(チャールズ1世の内戦など)に先祖が正義の味方となって戦い、土地財産を失ったと「夢想」した。
P174:バイヤールは「最後」ではなく「最初」のナイト
P220:コーンポーで200名の婦女子の肉片が井戸に投げ込まれた。
P226:商人は短い服を政府の者は長い服を
P233:ウエリントン公の「ワーテルローイートン校の運動場で勝利した」はガセ
P260:19世紀末にはジェントルマンは騎士道的であることを求められた。19世紀初めにこれを口にする者は誰もいない。この間の変化は単に言葉の流行といったことではなく、ジェントルマンはどうあるべきかという概念が変化したのである。
騎士道的ジェントルマンは偶然の産物ではなく、意図的に創られた。ディグビーやカーライル、キングスリーたちの目的は、支配階級の新しい手本を生み出すことだった。
18世紀には財産を所有していることで、支配階級は支配の権限を有すると信じられていた。彼等に統治する権利が与えられる根拠は財産であり、道徳的資質ではなかった。
騎士道的伝統を復興させる目的は、支配者に必要な道徳的資質を具えているが故にに支配する資格をもつという支配階級を作り出すことであった。
P269:知性より人格を重要視し、気骨と勇気があればいかなる問題も解決できるという考えが「聡明さ」への不信を招く、多くの騎士道的ジェントルマンはあまり知的水準が高くなかったばかりか、それを誇りにした。
P286:1916年7月1日ソムで東部サリー連隊のW・P・ネヴィル大尉はサッカーボールを取り出してドリブルしながら前進して、大尉の一隊は全滅。(他にも1件ある)
・戦争が至高の存在とされるのは「開戦」まで
P284:アーサー・メイチンが「イブニング・ニュース」に掲載した散文の一つ「射手」を1914年9月29日に発表するとこれ(アザンクールの射手を伴うセント・ジョージが戦場に出現して敵を掃討する)を「実話」と受け取る教区の信者が多かった。
P298:ジルアード”1914-1918年の戦争で騎士道は「死んだ」としたのは言い過ぎだったと今は思っている。アーサー王のように騎士道は「重い傷」を負った。しかし、姿は変えても、その傷から立ち直ることもあるかもしれない”