鉄砲隊と騎馬軍団―真説・長篠合戦 (新書y)

鉄砲隊と騎馬軍団―真説・長篠合戦 (新書y)

P41:古代から中世を通じて戦闘形態の変化は乏しい:仮にアレキサンダー大王の軍隊がワーテルロー(1815年)のウエリントン軍と戦っても「いい勝負」−『戦争の起源』アーサー・フェリル
P80:「馬上の鑓を鑓と定めず。是犬鑓なり」ー『龍韜品』
P85:1119年ノルマンディの支配権を争う英500騎VS仏400騎による騎士同士の激突は戦死者3名、仏側騎士140騎が捕虜ー『中世の戦争』
P94:国内で蹄鉄が広く普及したのは明治以後で、それ以前は「藁の沓」等を履かせていたが、これで疾走するのは蹄の負担が大き過ぎる。ー『騎行・車行の歴史』
P100:「蒙古襲来絵詞」の竹崎秀長は本領を失った「無足の身」だったが、主従5人で参戦している。
『騎兵』ジョン・エリス、『近代戦の黎明』デルブリュック、『戦争における馬』ピータ・ヤング
P106:騎馬隊同士の衝突は無い:騎馬隊同士は衝突を避ける。もし、激突したら双方の壊滅は必死ー『近代戦の黎明』
P156:マケドニアファランクスは最前列と最後列を下士官クラスで挿んで兵士の制動に配慮していた。
P159:南北戦争でも連続した一斉射撃は困難だった。ー『アメリカの南北戦争の兵器』アイアン・ドルアリ
P168:『世界銃砲史』岩堂憲人
P173:鉄砲傷が明確に発出する永禄6年(1563)1月から寛永15年(1638)2月の原城陥落までの期間中延べ730人の負傷原因を長篠前と後で区分すると前は「233人中109人=46.78%」、後は「497人中194人=39.03%」と長篠戦後の方が鉄砲疵が減っている。
P179:長宋我部元親は天正7年(1579)5月以前の談話で”自分の家では家老クラスまで鉄砲を撃ち習わせているから3度合戦があれば2度は敵を鉄砲で打ち崩して勝利している、「槍の柄を挙ぐる事=白兵戦」に持ち込むことなどは稀である”と自画自賛している。ー『元親記』
ルネッサンス期ヨーロッパの武器と戦争』バート・S・ホール
P186:18世紀ナポレオン戦争中にもなると銃兵は「狙い撃ちを禁止」される様になる。ー『火力』B・P・ヒューズ
P189:18世紀の銃兵は敵が敗走しても、戦列はその位置に留まることを強要された。死傷者からの略奪は死刑もって禁止された。−『王朝戦争から国民戦争へ』R・R・パーマー
P196:「垣楯、竹束、逆茂木、鹿垣」
P208:1522年ビーコッカ以後にはチョニチョーラが知れ渡り、一方が陣地を構えると他方は正面攻撃を避ける様になる。−『16世紀の戦法』チャールズ・オーマン
P220:信長自身には「長篠の野戦築城と鉄砲の組合せ」の有用性についての自覚は無い。
P236:「桶狭間の誤解(迂回・奇襲で募をもって衆を破る。実は正面戦)」はマイナスにしか作用しなかったが、同じ誤解でも「長篠の誤解(銃VS騎馬白兵。実は両軍の兵科に差は無い)」は有益な作用(白兵主義への歯止め)をする可能性はあった筈。