僕は八路軍の少年兵だった

僕は八路軍の少年兵だった

10:中国人は「満州事変」を「許すことはできるが、忘れることはできない9・18事件」と思っている。
四大節=元旦、紀元節天長節、明治説
・盧溝橋=別名マルコポーロ・ブリッジ
23:二拝二拍手→「天晴、あな面白、あな手伸し、あな明け、おけ」→二拍手一拝 万歳に代り「イーヤーサーカー(弥栄)」
30:火葬の最中に筋肉が収縮して死者の上体が蘇生と錯覚するほどにむくむくと起き上がるのを(自身は)見た。

39:地雷の起爆管は内部に紛れ込んでいた抗日反満分子に抜かれ無効化されていた。
40:部下に殺される知己の(鬼)兵長を見た。
45:子と共に射殺を懇願された母子に目隠しをして(自身は)その場を離れた。
48:山中では冷たく湿って、苔の多い方が北側
48:関東軍が橋を次々と落として先に逃げたので、退路を閉ざされソ連軍に追い詰められた開拓団が集団自決しているのが見受けられた。親を失った幼児は置き去りにした。中国人が避難民の所持品を略奪した際に、子供を連れ去ることもあった。
50:「音をたてるな、子供を泣かすな」:泣く子の口を必死に押さえて窒息死させた母親を見た。
1本のゲートルロープを頼りに渡河したとき幼児を背負い、子の手を引く母親は子供共々多くが流され、対岸に着くと女性・子供・老人はごっそりと減った。
54:安寧開拓義勇隊は所長の軍令無視で軍事行動に関与せず訓練所でじっとして動かず全員助かった。東寧開拓義勇隊は足手まといの病弱者に青酸カリ自決を迫り、勃利訓練所は「牡丹江を死守せよ」の軍令を守って多くの犠牲を出した。
56:チビ・病人は東京城収容所から延吉へ移送、シベリア送りを免れる。
57:赤痢で脱肛、痛みの為ズボンを脱いで歩くも移送の隊列から脱落したとき、朝鮮族の老女に助けられる。
63:収容所でも義勇隊時代の上下関係が生きており、先輩からの制裁、下級者への配給食糧の横流しで多くの拓友が命を落とした。
(以下、八路)
116:「土豪劣紳」の銃殺を執行して急所を外して失敗。「死生一如=悪党は死んでも悪人」、中国では「死してお詫びをする」は通用しない。
122:幹部のランクは組織毎の責任制
125:石油の空缶に爆竹を放り込んで「機関銃」とした。
128:零下30度以下では銃の鉄製部分に素手で触れ手の皮を剥す兵士が続発した。尿で解凍した。
137:大口径砲は日本軍の遺留品を使ったので砲弾の補充が無かった。砲撃演習では弾頭の起爆信管を抜いて撃った弾丸を回収した。?
144:敗戦時中国全土には375万人の日本人が居たが、解放軍兵士・技師・看護婦として働いた日本人は8000人は居た。
147:信仰の対象が多いほど、神仏の加護が多い。信仰は理屈じゃない、ただ祈ればよい。
212:1952年9月(?)天津師範学院国文科に入学させられる。
218:大躍進と文革の経済的損失は3400億ドル、文革前の30年間の中国の基本投資額2800億ドルを遙に上回った。
234:元は海外に持ち出せ無いので退職金1600元全部使い無一文になってから、ポンドに交換して持ち出せることが解ると、天津師範学院の同窓生はカンパ活動で1700元を集めてくれた。
244:友好商社:日本の商社は(左翼系の特定中小業者を装う?)ダミー会社を作り中国と貿易取引をしたが、中国側も百も承知だった。
・「大海航行靠舵手」