増補 高野聖 (角川選書 79)

増補 高野聖 (角川選書 79)

P11:『平家物語』は高野聖の唱道の産物
・『非事吏事歴』
P25:慶長11年(1606年)将軍の命で、四度加行(初歩的な僧侶の修行)と最略灌頂(簡易な真言宗の入信儀式)を受け、全ての高野聖時宗を改め真言に帰入した。
P30:戦乱、政争、恋愛に敗れて入山した中年者の俄道心では幼年期の交衆(山僧登録)から複雑な学道階梯と長く厳しい修業を経て初めて一人前になれる学侶や行人の身分には成れなかった。世俗時代の華やかな生活と入山隠遁後の道心を対比して、文学・唱道に利用した。
P33:『古事記』「御火焼の老人(東ノ国造)」
P34:原始宗教ほど信仰を内面的な質よりも作善(宗教的善行)の数量で量る。
P37:焚身捨身、焚剥指臀、碗上焼香は苦行による贖罪である。穀断行を神仙術、燃灯供養を仏典の燃灯仏で説明するは誤解、ただし、入水往生・焼身往生の多くは信仰の結果というより、世の賞賛を目的にしたもの『往生伝、沙石集、三国伝記』
P40:僧尼令の第二条は吉凶の卜占(卜相)・禁厭(小道)・託宣(巫術)の原始呪術による治病を禁止したが、密教(とくに雑密の陀羅尼)をもって病を救うことは咎めなかったので、聖らは密教・道術・法華経・念仏を用いて外面だけは合法を装い、庶民の要望に応じて治病・除災・招福の為に原始呪術を盛んに行った。
P44:大衆動員の方法としての融通念仏:良忍の融通念仏は融通念仏宗(この一宗取立は元禄8年)とは別の集団による念仏の合唱で功徳の相乗的増大を図るもの、日課念仏の名帳に名を記載(合唱集団加入)すれば、時空間を越えて、百年前の死者の念仏も、百里先の遠隔者の念仏も相即融通して同時同処の集団的合唱と同じ功徳があるとする。
P46:聖の職業:『日本霊異記』上巻19話=碁打、上巻27話=盗賊・詐欺、下巻4話,10話,30話,38話=妻帯、子沢山、産業従事、
P51:人間愛から社会的作善を行う限り、戒律は絶対的なものではないとする思想が聖にはあった。この精神を生かさなければ現今日本の俗聖的妻帯僧は社会の指導者となる機会は来ない。
P52:仏法僧の三宝と言えど経済行為に拠って維持するもので、仏教の歴史も経済現象を除いては所詮抽象に過ぎない。
・荘園>勧進>檀家>観光:荘園も広義の意味では勧進の結果寄進された。近世の檀家門徒も中世の無制限勧進がら勧進圏を制限する近世封建体制にはめ込んだものに過ぎない。堂塔・寺宝・寺庭の観光的開放はこの制限を再び撤廃して「1紙半銭」の勧進銭(志)に定価を設けた如きもの。
P56:行基は大僧正就任の78歳まで「沙弥」(『扶桑略記天平17年正月』、『日本霊異記:中巻第7話』)で、「丹比連大蔵の優婆塞貢進解(正倉院文書)」に「薬師之寺師位僧」とあるのは大僧正就任の前に形式上の具足戒を受けて師位を貰ったと思うほうが自然で、景戒も「伝燈位」を受けるとき僧籍を便宜的に薬師寺に置いた。
虚名の大僧正、弟子400人の出家、配下の聖の官度受戒、これらは大仏造営大勧進を引き受けたときの(密約)条件。勧進聖の頭目は有能でがめつい事業家で、この俗物性がなければ今日の仏教文化財は存在しえない。
高僧たちの慈悲深い行跡・深遠な思想をならべれば、上品な他所行の日本仏教史が書けても、これらを支えた現実的な下部構造(薄汚い無知な庶民、厚顔な聖)は理解できない。
P60:寺社から勧進権(大勧進職)を得て御堂・仏塔建立の契約を果たせば、勧進で得た余剰・リベートは大勧進聖人の所得となった。大勧進聖人とは中世的な建築請負業である。『南無阿弥陀仏作善集』を見れば「俊乗房重源」が莫大な資金を動かしたのが解る。
P61:堕落・慢性化した勧進聖:『賤者考』によれば熊野詣の坂や橋には「道の本願、橋の本願」という道普請・橋普請を理由に道銭・橋銭(通行料)を取る乞食聖の堕落した姿や、『大乗院寺社雑事記(文明8年4月26日)』には奈良の帯解橋で興福方から勧進権を獲得し橋修理の奉加銭を集めてトンズラを決め込んだ勧進聖が出ている。
P63:知識(同信者集団):河内知識寺の大仏が零細な勧進銭の結集で出来たのを見て、聖武天皇は大仏造立を発願した。
聖の社会的機能は勧進にあり、この作善ゆえ飲酒・肉食・妻帯などの破戒的世俗性は許された。
P64:「丹生津比売神
P65:「納骨・納髪・ほとけたて(塔婆供養)」を行う山岳霊場
P67:高野山は中世日本随一の「念仏の山」
P71:応永20年(1413)5月26日高野山五番衆契状に「今に於いては寺家大身体念仏の庵室と成り、密教既に滅びんとす。歎かざるべけんや」と山上では時宗の声高念仏や踊念仏を禁止したが効果は無かった。
P73:優婆塞空海空海の伝記は650種ある。偽書『御遺告(4種ある)』では(多々あるから折半すると)20歳得度、22歳受戒であるが信じる学者は皆無、公式記録の『続日本後記(4巻の空海卒伝)』、空海自著『三教指帰』及び『性霊集』に頼るのが筋で、卒伝には「年三十一得度 延暦二十三年入唐留学」とある。
江戸期の『梅園奇賞』の中で石山寺の秘庫で見た空海得度の度牒官符(得度の公式記録)を影写しており延暦24年9月11日付、この時空海長安で恵果阿闍梨から金胎両部の灌頂(真言宗の入信儀式)を受けたころで、これは優婆塞の身で入唐した空海の後事を託された友人・後援者が渡航後に留学僧の資格を造る為に「玄蕃寮」に働きかけて、この度牒を作って貰ったことを物語るものであることは東寺の長谷宝秀師も認めている。
従来、共に渡航した最澄には入唐勅許、金銀数百両の下賜、訳語(通訳)随伴の許可の諸記録があるのに、空海には全くないのが不思議とされていたが、空海が遣唐船4隻中最も安全な船に「大使の藤原葛野麿」と乗った(最澄は副使の乗る第2船に乗船した)疑問も得意の漢文で「大使の通訳」をアルバイトに入唐したとすれば謎は解ける。
渡航してしまえば唐朝留学僧の待遇で勉学をし、帰朝後は上表文を出して合法化することになる(『付法伝』)。空海が帰朝後1年以上も入京できずにモタモタした理由も合法化の手続きに手間取った為である。
志学(15歳)にして上京し二九(18歳)にして槐市(大学)に遊聴したと『三教指帰』序に告白してから31歳までの13年間は「回国聖」の姿を伝えるものばかり。このとき庶民仏教家としての下地が培われたのか?
P80:承仕(じょうじ)・夏衆(げしゅう):高野山で承仕の初出は観賢僧正座主(919-925)のとき、物資運搬、炊事給仕、堂の扉の開閉、仏前の点燈供華をする元は修行僧の従者が半僧反俗の聖として奉仕するようになる。これは後に云う高野聖、念仏聖と行人(堂衆)との未分化の聖で、「承仕・夏衆・花衆・花摘・道心」と呼ばれた。勧進・荘園経営に従事し、経済的・武力的実力をも備える様になる。この現象は比叡山の学生と堂衆の関係も同様、古代貴族の従者(侍)が主人を圧倒した様に、平安中期から夏衆・堂衆は学侶と対等の地位を要求するような傾向が自然に生じた。
P81:行人と聖:承仕・夏衆の中から行人と聖が分化するようになると行人は山岳信仰・苦行・呪術、聖は浄土信仰・念仏・納骨を各自が司ったが、高野聖は行人的性格を残して回国と勧進を行い、十穀断の様な行人的苦行もする聖である。
念仏聖との違いは山の開創者の優婆塞仏教と、承仕・夏衆の原始宗教性、即ち沙弥・優婆塞の古代的聖の直接の末裔であることである。高野聖院政期の「別所聖人」からときはじめると、後の高野聖の活躍を充分に説明できない。
P96:「貧者(女)の一燈」:一燈一杯の喜捨、『高野山万燈会』燈油皿一杯分の油またはこれに代る米銭
P100:小田原聖教懐は高野聖の直接的な起源
「三十口聖人」→「七口聖人」、湯屋の湯聖
P109:伝法院 対 金剛峰寺: