歴史とはなにか (文春新書)

歴史とはなにか (文春新書)

アメリカ人との交渉に過去の話を持ち出すと「歴史に逃げ込むな」と云う顔をされるのが常。
・復元された那覇首里城・正殿は2階構造:1階が日本式宮殿、2階は全くの中国建築様式、薩摩使節は1階、中国使節は2階で夫々出迎える為。
中華民国=台湾は沖縄を日本の領土と認めていないので、沖縄県人に対する台湾のビザ発給は「中琉文化経済協会」が担当する。日本本土に置いている「台北駐日経済文化代表処」と別組織にしている。
中華人民共和国も同様に沖縄人は中国に属し、潜在主権を持っていると解釈している。
・「三国史記」は1145年に成立韓半島にはこれより古い記録は無い、中国皇帝(昭帝)が紀元前82年に「真番郡」を廃止したとき、新羅王国が起こる慶州方面が中国直轄地ではなくなる最初の甲子の年(六十干支の最初年)が紀元前57年、中国皇帝の手前これより昔に新羅建国を遡れなかった。
・「三国史記」の「新羅本紀」では建国当初から「倭人」が頻繁に登場するが、その部分に限って「架空」の新羅王の時代である。歴史的に実在が推定できる新羅時代になると「倭人」はパッタリと姿を見せない。これを信じて井上秀雄は「任那日本府と倭(1973年)」を書いたが架空の時代の話だから「無駄な作業」といえる。
・「史記」、「日本書紀」等は「民族や国民の起源」では無く、「君主の起源」を書いている。19世紀に発生した「国民」観念、20世紀に発生した「民族」観念で、過去の歴史書を読み替えてはいけない。
・「古賀政男」は朝鮮の音楽を盗んだことになっている。

高市県主の許梅(こめ):大和高市郡の大領(漢人集落の長官)、人名も中国風
神武天皇陵とされる樫原畝傍山の古墳は「自然の岡」である。
・「古事記」を語るとき、大勢の人は本居宣長の「古事記伝」を語っている。
1924年発表小谷部全一郎の「成吉思汗ハ源義経也」の元ネタは1879年ケンブリッジ大に留学していた末松謙澄がアジア人として受けた差別待遇の「腹いせに」イギリス人を装い書いた1879年の「史学論文・大征服者ジンギスカンは日本の英雄義経と同一人なること」で、1885年に内田弥八が「義経再興記」として訳述・出版されると大きな反響を呼んだ。
・「記紀」で云う皇室祖先が「天から降った」は「土着」の意味で列島内の発祥を指す。
フランス革命は「王の財産」を誰が相続するかの闘い、アメリカ建国は英国王の「私有地」の強奪。
・現代史の始まりは1789年アメリカ合衆国の成立とフランス革命後の1799年にナポレオン・ボナパルトが第一統領になって「国民」が王の財産を相続したときから。「国民国家」の成立以前の欧州世界は王の私有領土か自治都市以外の形は無い。
・世界初の不換紙幣(信用手形)は13世紀モンゴル帝国で取引相手のベェネツィアに地中海世界初の銀行ができる。
・アルフォンス・ドーデの「最後の授業」(1872年)のアルザス地方の方言は「ドイツ語」なのでフランツ少年は日常ドイツ語を話していて、学校で「フランス語」を学ばされていた。この小説が主張している様なフランス語圏ではない。(そもそもフランツがドイツ読み)
・ナポレオンの国民(皆兵)軍に欧州各国は質・量共に全く歯が立たなかった。以後国民国家でないと戦争に勝てないのが解ると各国の王は「傭兵」を捨て、「国民軍」の創設を始める、このとき自分=王が排除されないで「国土を国民に譲渡」する「立憲君主制」が生まれた。
日清戦争科挙出身官僚を廃して外国留学帰りを役人に登用することに切り替えた1896年から清国人留学生が多数日本に押し寄せた。この頃既に日本では「言文一致体」の開発が進んでいたのは清国留学生にとって「新鮮な驚き」だった。なぜなら、それまで中国では「耳で聞く」言葉と「目で読む」文字は対応しないのが当たり前だったからだ。後に、彼らが帰国して役人・軍人になり清帝国国民国家化に参加することになる。正式に科挙試験が廃止されると古典漢文体に代わって日本文からの直訳体が全国的に流行する。
・1918年「注音字母」:日本語の片仮名に倣って漢字の右側に「読む音」を注記するもの
・日本に留学した「魯迅」が書いた「狂人日記」が中国現代文学の第一作で、その文体が「白話文(口語文)」となる。魯迅は日本語で考えた原案を1語1語、漢字に置き換える作業をした。こうして魯迅は「現代中国文」を創ったのである。
・20世紀初頭中国内地では新式校には必ず「日本人教師」が呼ばれて「日本語」で授業が行われていた。中国全土で通じる「普通話(語)」の登場以前に、1時期ではあるが「日本語」が(最初の)共通語だった時代が中国大陸には存在する。
朝貢「貿易」は虚構:朝貢とは朝礼に出席して手土産を皇帝に捧げることで、あくまで皇帝個人に対して外国の君主・族長が個人的に敬意を表す手続きにすぎない。