ピラミッドはなぜつくられたか (新潮選書)
ピラミッドはなぜつくられたか
アマゾンの1円売りが多いで、結構売れた筈なんだが・・・たとえ目的が「達成」できていない場合でも最も妥当な説に見える。文明=シビリゼイションとは「水利、土木」のことなんだから。
・ナルメル=ミン=メネスは全て同一の人物
・死後3,4日しないと女性の死体はミイラ職人に渡さない、職人が死体を犯すことが同業者から報告されているからである(ヘロドトス、歴史2巻-89)
・ナイルの農民は収穫の為に鋤・鍬を入れ農地を耕したりしない、河が溢れて耕作地が灌漑され、水が引くと種子を撒き、豚に種子を踏みつけさせて収穫を待つ、穀物は豚を使って脱穀する。(歴史2-14)→クルト・メンデルスゾーンが「ピラミッドを探る」で「無用の用」的公共事業説を唱えた。吉村作治もこの失業対策説の擁護を「ピラミッドの秘密」でしているらしい、しかし、この「氾濫農法」を採用している地の農民が河の氾濫時期に困るなどとドウシテ想像できたのか?
・アスワン〜カイロの高低差は63mしかないので、ナイル河を眺めるとどちらに流れているのか解らないほどに緩やか、秒速0.7mで1000キロの行程を停泊なしで17日、風は常時北から南に吹くので上りは帆を張り時速7.5キロとして6日、下りより上りの方が速い。
・「太陽の船」は水に浮かべた痕跡がある。
・ピラミッド建設の最盛期は「160年間」、全期間でも1000年で終了している、日常的な習慣・宗教に起因することではない。
p57:ピラミッドは合計79基(主体44・付属35・想定3、三角真正68基・階段型9・屈折型1・長方形石棺型1)で建設年代は古王国時代の470年間で51基、第一中間期(140年間)3基、中王国時代(250年間)20基、第二中間期の第13王朝の150年間で4基、年代不詳が1基、86%が真正型で65%が古王国時代のもの。
・ケオプス王は金に窮して自分の娘を娼家に出して稼がせた。娘は金のほかに工事用の「石」を1個を寄進するように客に頼んだので大ピラミッドの3基(別名王妃のピラミッド)はこの石で造られた。(歴史2-126)ーヘロドトスのエジプト訪問はペルシャ支配の時代なのでエジプトの古王、特にピラミッドを建設した王の評価は疑問視した方が良い。”王の娘が淫売して建造した”など現地人がヘロドトスをからかった「冗談」と解釈するのが普通である。
・ストラボンが王墓、プリニウスが(王の)財宝の隠匿場所、プロクルス(410-485)が墓&天文観測所はまだ良いが、ギザの「大ピラミッド」について中世西欧では聖書に言う「ヨセフの書庫」、19世紀の英・天文学者ピアジ・スミスは「ピラミッド・インチ」は地球両極直線の5億分の一、仏・考古学者フランソワ・ジョマールはメートル法の記念建造物、20世紀に入るとジョルジュ・バルバランは内部寸法は聖書の内容・人類の歴史の予言、1859年英ジョン・テイラーは「4つの底辺の合計は高さを半径とする円周に等しい」等の特に寸法に関するトンデモ説は79基ある内の残り78基には当てはまらない。
p121:ギザのクフ・カフラ等の巨大ピラミッドには「碑文」は無く、小型にあるのは規模を呪文(=碑文)で補おうとしたのかも?
p122:古代エジプトの神官マネトーの集録した王名表でピラミッド時代(第3王朝から13王朝の1000年間)の王は180名だが主体は44基しかない。
p174:個々に流水の圧力を吸収する「テトラポッド」で、かつ複数になると「霞堤」の役目を負う多角機能の「制水物体
p184:ミン王が「メンフィスを堤防」としたのとは違い、テーベではナイルの氾濫は西では無く東に溢れる、1000m級の紅海台地がこれを防いでくれるので首都をテーベにした新王国時代には「水制」の必要が無い。
p199:ミン王の事蹟は堤防を築いてメンフィスを安定させたこと。河を堰き屈曲させ、元の川床を涸らし、河流を転じて山間の平野を流れるようにした(歴史2-99)
エジプト人も言っており私もそう思うが、デルタは河の沖積によって出来たもので、最近出現したといってよい(歴史2-15)