倭国の時代 (朝日文庫)
倭国の時代:日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (叢書 日本再考)で引用されている
p35:中国は20世紀にラジオ放送が始るまで耳で聞いて解る全国に通用する「共通語」が歴史上存在したことが無い。漢字は見れば解るが「表意文字」で話言葉の音を表す様に出来ていない。話し言葉が異なるときは筆談の方が容易でさえある。逆にこのことが中国文化の統一性の継続を可能としたのである。しかし、表意文字話し言葉を忠実に伝えようとすると読みにくくなる。「書経」、「論語」が甚だ難解な理由である。(中国政府が1975年10月に実施を予定していた漢字からローマ字表記への移行を無期限に延期した。)
p132:「日本書紀」の制作のスポンサーは「持統天皇」なので「古い記録」は壬申の乱直前の王位継承に絡む話をモチーフに創作したモノばかり。「崇神天皇」は草壁皇太子
p150:「神武」は南九州の隼人と大和を結縁させる役割で登場した神で、だから「実在の仁徳帝」以前の架空の天皇(大王)の中で「神武天皇紀」が一番最後に書かれている。
仲哀天皇紀」・「神功皇后紀」が先に出来たので「景行天皇紀」では北九州(岡、伊と、儺、山門、松浦)5県を景行の経路から外し、さらに「日向」を皇室の故郷にすることを思い立ち「神武天皇紀」を創った。
神武天皇」が虚構の大和朝廷13代の中で最後に出現したことは「天武天皇紀」で解る。672年飛鳥京に「大伴連吹負」が近江朝廷軍に大敗し宇陀の墨坂まで逃げてきたとき伊勢から鈴鹿峠を越えて来た援軍と出会い、引き返して金網井(橿原市)に布陣、見方の敗残兵を集結させていた。このとき吹負陣中にいた高市郡橿原市)大領の「高市県主許梅」は突然口が利けなくなると3日後に「神憑り」となって以下
”私は高市社に居る、名はコトシロヌシの神である。また、身狭社に居る名はイクミタマの神である。”
”「カムヤマトイハレビコ」(神武)天皇陵に、馬および種々の兵器を捧げよ。”
”西の道から敵軍が来る。気を付けよ”
と言い終わって「許梅」は正気に返った。吹負は許梅を遣わし高市社・身狭社・天皇陵に捧げ物をして祭り拝むと、近江軍が河内から進撃してきたので吹負は当麻に迎え撃って大勝した。
これが神武が世に知られる最初の出来事で、戦場で1時的に精神錯乱になった「許梅」が「地元の無名の大古墳に宿る霊」の名を口走ったに過ぎない。
p165:「日本書紀の神武記」では「皇別」の氏族名が「多臣(おほのおみ)」しか取り上げていないのに「古事記」は「意富臣(おほのおみ)」をはじめ「21氏族」の名が載っているが、815年の「新撰姓氏録」にはその中「7氏族」しかない。(古事記の著者太安万侶、多朝臣人長がこの意富臣)
皇別」を自称する氏族は「神武」の子孫だけで
 日本書紀(720年)1氏 >新撰姓氏録(815年)7氏 >古事記 21氏 
と濫造されているのが解る。「新撰姓氏録」は氏族の起源について「日本書紀」を参照して伝承と一致するかを注記しているが、「古事記」の方は完全無視である。これは古事記が「新撰姓氏録(815年)」以前には存在していないので致し方ない。
古事記」の様に旧い時代ほど「物語や歌」が多いのに比べ、史実が豊富に伝承されている筈の新しい時代ほど尻すぼみに内容が薄くなるのが「偽書」の特徴である。
落ちぶれた「多(太、意富)氏(新羅帰化人)」が仇敵の「茨田氏(百済帰化人)」を妬んだのが「古事記」著述の動機である。
・672年壬申の乱新羅派・大友皇子百済派・天武、794年桓武天皇平安京に遷都したのは新羅派の勝利、山城国葛野郡秦氏の本拠地。
p200:夷=多数、タイ語に近い。狄=少数、アルタイ系、「論語」によれば、孔子は普段の会話に「方言」を使い学問について高度な話をするときは「雅言=マーケット・ランゲージ」を使った。伝説の「夏」王朝も「価、牙、雅」と同音で古代中国公用・共通語の本質が交易・通商由来だったのが解る。
p272:「日本書紀」の倭国の大王は各地に複数の「王宮」を持ち一箇所に留まっていない。「反正天皇紀」で「淡路宮」に産まれた「反正」の父「仁徳」の王宮が難波「高津宮」だけではなかった証拠である。「弁恭天皇紀」弁恭が「宋書」443年に南京に使いを出した「倭王済」なら「忍坂(オシサカ)宮」、「茅淳(チヌ)宮」、「藤原宮」と少なくとも3つの王宮それぞれに王妃を居住させ、直属部民(刑部・おしさかべ、藤原部)を置き管理にあたらせ、自分はその間を往復して暮したことになるが、この経営方式は契丹人やモンゴル人のものと似ている。
p282:秦人=辰韓・弁辰の中国人植民都市の子孫で前漢時代の陝西方言に辰韓人・弁辰人の土語の影響を受けた言語を話し、古く倭国に移住してきた華僑が秦人。漢人=475年広州が陥落して百済が広州に移ってくると帯方郡の遺民である中国人難民が大量に発生し倭国にも流れ込んだものが漢人で魏・晋時代の河南方言を話す華僑。
p284:日本建国の年は鄭玄が主張した「天道は1320年で循環する」という「易緯」理論により百済滅亡660年の翌年661年で神武紀元は1000年遡及した。鄭玄は数学・暦学に精通していたので、前漢末に大量生産された予言の書物を研究史してその理論の権威と仰がれていたので、科学的儒教主義文献の「易緯」に注釈を書いたのである。
鄭玄58歳の184年「紅巾の乱」で中国の人口は10の1に減少、社会秩序は完全に崩壊した。紅巾のスローガンも「蒼天はすでに死せり。黄天まさに立つべし」で中国文化の伝統はここに断絶、新しい時代が始ったというのが、当時の中国人の実感だった。紅巾の乱を境に「儒教」は信仰としての生命を失い、代って「道教」が中国思想の主流になった。
p287:倭国大王は倭国に君臨した河内・播磨・難波の3王朝の共通の祖先として天智天皇が北九州香椎から持ち帰った「反新羅」的な護国神「仲哀・神功・応神」の3柱が採用されて、半島との関係の象徴であった「住吉三神」の地位を奪う。「秦人・新羅人」は新・日本政府で実権を握る「漢人百済人」の圧迫を避けるため倭人社会・文化に同化しようと必死になり、宮廷につてのある連中は、各々「架空の天皇」の末裔と自称して、所謂「皇別」氏族となる。
半島の「弥移居(みやけ)」からの収入が途絶えた日本政府は移民を東国に派遣開拓に注力する。その結果東国に地盤を持った天武天皇が672年の壬申の乱に勝利しただけでなく、やがて東国武士進出の遠因を造る。「日本武尊」はこの東国開拓が生んだ英雄。

p291:言語は「漢人百済人>秦人・新羅人倭人」の扱いであったが、漢人・秦人が倭語を理解するようになったことと倭人の地位向上が重なり日本語が成立。
漢人百済人の言語は楽浪郡帯方郡で土着化した中国人と、中国化した濊人・朝鮮人・真番人の土着人とが使った「河北・山東方言」に後漢・魏・晋の「河南方言」、南朝の「南京方言」、475年に百済の南下によって中国化した「馬韓人の言語」との影響が加わって出来た言語で倭国の首都である「難波」から河内・大和にかけて話されていた。
p288:倭語の音を漢字で表した最古は443年隅田八幡の鏡の銘「意柴沙加宮(おしさか)」だが、これは固有名詞。
 
大化の改新蘇我氏失脚の直後倭国は親百済から親新羅に傾いた時期がある。647年に金春秋(後の新羅の太宗武烈王)は難波宮に来訪し、648年には唐に入朝太宗皇帝に面会している。これは対百済の共同作戦の為である。