日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (叢書 日本再考)

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (叢書 日本再考)

日本史の誕生
・森浩一曰く、日本の古墳は15万で4世紀から7世紀間で年500基生産したことになる。余程人手が余っていたらしい。
p24:日本列島は紀元前2世紀の後りから「中国皇帝」の支配下(商用圏)に入り、400年以上の間「シナ語」を公用語として皇帝の保護下に平穏無事に暮していたが、紀元4世紀に大陸の大動乱で中国皇帝の権力が失われると、止む無く独立を指向せざるを得なかった。
p28:中国皇帝は定期市場の商人団の頭領である古代の王が発展拡大したもので自身が商人・金貸しである。政府収入の「租」は農産物の現物徴収であるが、これは地方県庁の官吏・軍隊の維持費に当てる。対して、商品に課するのが「税」で交通の要衝、都市城門を通過するとき商人が払うがこれは「皇帝の収入」になる。税関(他に食塩の独占販売権など)は政府でなく皇帝の直営事業でこの利潤は主に外交・戦争に使われる。中華帝国とは国民の意思とは無関係な「皇帝の私的企業」である。
p36:日本の建国者は「華僑」である。日本は文化的に華僑の子孫である。これは中国周辺のアジア諸国ならどこでもそうなので別に驚くことはない。古代地中海世界ギリシャ・ローマが植民都市を建設するときは必ず「退役軍人(ベテラン)」と「ユダヤ(商工業)人」が入植したのである。
紀貫之は『古今集』序で和歌の開祖は「なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくこのはな」の作者華僑の王仁(わに)としている。
p51:舒明天皇即位629年からは史実に忠実と考える。
p56:中国の伝統用語である朝貢国とは友好国と略同義。中国古語で「国」と「郭」は同義で国とは城塞都市を指す。
p58:「鬼道」は190から215年陝西南部から四川東部にかけて宗教的共和国を建設した「五斗米道教団」の神々。
p67:『魏志倭人伝』の邪馬台国・・7万余戸、投馬国・・5万余戸、奴国・・2万戸、他1万の合計15万戸はクシャンの10万戸を凌駕し、『晋書・地理志』による洛陽を含む河南軍12県で11万4千戸であった当事の事情からして多すぎる。
p92:天皇号の最古用例は668年12月付『舟首王後墓誌銘』
p101:中国の城郭都市は「県」と呼び「市場」である。城壁内住人は軍人・官吏・商人・手工業者として戸籍登録され「民」とされる。これが「中国(都市)人」である。対して、城壁外の住人は「蛮・夷・戎・狄」と呼ばれ非中国人である。この様に中国人は人種の差ではなく都市の戸籍に登録されているか否かによる。
国史の誕生とは「秦の始皇帝」が陝西省の咸陽を中心とした「商業都市網」を完成した紀元前221年である。中国「2千年の歴史」が正しい。

p149:石神神宮にある『七支刀』は太和4年(369)と銘文(百済王世子の承認)から河内王朝(仁徳帝)建国の年を証明する。
『広開土王碑』391年
河内王朝:仁徳>履中(讃)>反正(珍)>允恭(済)>安廉(興)>雄略(武)清寧
播磨王朝:顕宋>仁賢>武烈
越前王朝:継体>・・・>聖武
大化の改新」は663年白村江敗戦以後の天智帝建国事業を遡及したもの。
681年6人の皇族、6人の貴族からなる「帝紀及び上古の諸事を記し定める」委員会が結成され「日本書紀」の編纂開始。
応神(天皇)は元を質せば「敦賀気比神宮の祭神」で、継体天皇の祖先神である。応神の両親仲哀と神功皇后は「博多は香椎宮の祭神(海神)」で半島攻略に博多に来た斉明天皇の陣中に顕現した神々で天智天皇が近江大津京に持ち帰った。神武(天皇)は672年壬申の乱の真っ只中に大和橿原顕現し天武軍を助けた「神霊」と『日本書紀・天武紀』がはっきりと伝えている。神武の熊野上陸から吉野・大和に到る経路は天武軍の攻略経路である。
伊勢天照大神壬申の乱で天武が東国に逃走中に天照を遥拝したとき初めて世に知られる。
p171:継体帝の5代前、応神天皇にかぎっては墓が無い、角鹿ツヌカ(敦賀)の笥飯ケヒ(気比)大神と名前を取り替えた神そのもの。672年以前には神武の存在自体知られていない。神武は天武の事跡を綴ったもの。
p194:815年『新撰姓氏録』20巻は抜書きで江戸期の塙保己一の『群書類従』に残っている。それには倭国領内畿内諸国に住む1182氏族の起源が「皇別(歴代倭王家)・神別(倭人貴族)・諸蕃(華僑)」の3種に分類されている。華僑とは大陸・韓半島から来た男が倭人女性に産ませた混血師弟が造る集合体を言う。
新撰姓氏録による諸藩の分布は摂津・河内・和泉・大和・山城・近江で難波をとり巻く地域人口の多くは外国入植者で畿内の開拓はこの入植者である「華僑」が行った。華僑は秦・漢・高句麗百済新羅系統からなり中でも「秦人ハタビト」、「漢人アヤヒト」が2大集団を形成していた。
p199:7世紀以降、「鎖国」こそが日本の国是であった。当事の列島・韓半島の(商用)共通用語であった中国語百済方言を捨てて「日本語の開発」が始る。
日本語の同系統は沖縄語以外見つかっていない。日本語の「語彙はオーストロネシア系」でこれはマダガスカル・台湾・東南アジア・南太平洋に見られる系統、対して日本語の「統辞法はアルタイ系」でトルコ・モンゴル・満州語と共通、日本語は奇妙な混合語である。
・『土佐日記』に日記は本来、男の漢文で書くところを女だから日本語で書いてみるという書き出しで始る。
同様のことは明治期にもあって森鴎外尾崎紅葉夏目漱石などの作品を誰もが読んだ理由は新しい日本語の使い方を知る為であった。・井上ひさし「国語元年」
紀貫之『竹取物語』、『土佐日記』、『古今和歌集』は新造日本語の偉大な実験。