「神社」とはなにか―古代日本における「廟」―
鎌倉時代、世にある「神」は、仏が神の姿をかりて現れた「権社の神」と、祟りや災いをもたらす「実社の神」の二通りと考えられていた(『諸神本懐集』)。仏の垂迹した神ではない、当時の民俗神のようなものは悪鬼神として恐れられ、それは奈良時代の『風土記』にみられる神々が、そのほとんどすべて災いや祟りをおよぼす恐ろしい「神」であったことと変わりがない。中世、身近にあって「神社」にまつられているのはそのすべてが仏であり、「神」は仏の力をかりて漸く姿を現すことができるようになった。「神社」の教義・思想ともいうべき「神道」も、漸く鎌倉時代になって密教の影響下に成立する。
戦後の建築史は「神社」が太古からの悠久の歴史を持つかのように記述してきた。教義もないのに「神社」という建物が「自然に」立つのであろうか。奈良時代以前の「神社」を研究するための史料は『古事記』と『日本書紀』である。両書の成立を主導した天武天皇は、神話を皇祖を中心とする体系へと編成創作し、「官社」と呼ばれる国家のための施設を認定して在地の神々を天皇支配下に一元的に位置づけようとした。したがって両書には作為された神々が記述されているのは勿論であるが、作為された「神社」が記されている。天武天皇が企てた「官社」は微小の施設をはじめて広範に在地の神々に与えたと考えられるが(正面五尺奥行三尺五寸高さ三尺と私考している)、平安初期を頂点とし急速に解体に向かうと考えられている。一方で奈良時代以後勢力をもつのは仏にすがった神の施設ばかりである(宇佐八幡や諸神宮寺、宮寺)。古代に「神社」建築あるいは「神社」が成立したかも未だ明らかでないならば、神々の施設を「神社」という前提を外して考える必要が生まれよう。仏教でさえ新奇な呪術として受容された我が国の、道教等をすでに吸収した基層信仰からすれば、「神」をまつる施設を立てるという動機が「神社」をうんだとは必ずしも考えられないからである。
官社制による在地の信仰の再編が進みつつある奈良時代の前半に、村々には「社」と「祠」があった。当時の法律家によれば「社」は官社と考えられる一方で村々が自主的に立てた信仰の施設とも考えられ、他方の「祠」は百神をまつる「廟」であった(『令集解』)。民間の信仰施設が「神社」ではないものと観念されていた、ということであろう。さきに触れた『風土記』でも、祟り神を鎮めてまつるために渡来人の力を待つ記載が目立つ。記紀でも「神社」建設の少ない記載のなかに渡来の神をまつる施設がある。ひたすら恐れ遠ざけるしかない神への接し方が、渡来人の新奇な呪力によって調伏されて鎮座の地を得ることとなる図式が透けて見えよう。
記紀などの検討から比較的に古い時代に成立したと考えられる神々は宗像の神と住吉の神、鹿島の神である。これらは軍事神であり、日本における「神」の必要性がどのあたりに胚胎したかを示すものであろうが、これらの神々は行軍に同伴する役割からかなかなか鎮座の地をもたなかった。皇祖の祭祀と関係する大神社は複数の祭祀地が次第に禁足地に収束するが、一時期、土壇が築かれたり馬を生贄に供していた痕跡がある。伊勢神宮は七世紀末に本殿が成立したと考えられているが、神体を納める容器が石棺を模していることや神座の鋪設から中国の廟制の影響を想定することができる。
これらの少ない施設はその成立の契機はさまざまであり、またその数の少なさを考えるならば日本独自の「神」の信仰に基づく「神社」という範疇を立てるには及ばない。前述の官社が全国に「神社」の種子を播いたことは誤りなかろうが、班幣を供えるほかは具体的な祭祀の実態は明らかでなく、在地の呪術的な要望に応えることは難しかったであろう。多くの「神社」が、「神」の本地仏が定まりその仏の霊験によってはじめて在地に根を下ろしたのであれば、「神社」成立と発展は中世以降に、仏教の化儀(衆生教化)としておこったことになる(黒田俊雄)。建築史にとって考えれば、祠や廟などの雑多な宗教施設が仏教の支配下に入ることによって、仏の「神社」として、はじめて建築群としての概念を得ることとなる。「神社」建築史の骨格は、仏教建築のなかの特殊堂宇の成立と発展、明治以降の自立という歴史となる。

「権社・実社」の区別を探していたら偶然に辿り着いた「ホリダシモノ」