アトランティスは南米にある?
プラトンが著書「クリティアス」、「ティマイオス」で言及した「ヘラクレスの柱の向こうにある」「リビアとアジアを併せたよりも大きい」「水路に囲まれた首都」「赤白黒の壁」のある「島」アトランティス南アメリカだと「ジム・アレン」は主張する。
長方形の平原はアンデスボリビアのアルティプラノ高原(=四角い平原)であり、ボリビアに銅と金と錫の合金オリハルコンがあり、アトランティスはアトル(水)アンティス(錫)から来ている、と言うもので、実際チチカカ湖周辺(パンパ・アラガス?)は25000年前は海、その後氷河期で水位が下がり陸地化、10000年前氷河期終了で水没したのは確かで、チチカカ湖は水位が下がると遺跡が見えるときがあるらしい?。ただし反論者によるとアルティプラノは遥か昔から不毛の土地で、高度な灌漑技術を持っていたアトランティス文明には符合しないと言うが、チチカカ湖周辺の遺跡はまだ3%しか調査されていないらしいので、夢は暫く見られる。
ティアワナコでは「銅とニッケル」の合金が出土しているが、このが融点は3500度でこの温度を現生人類が得るのは1930年代。葦舟で外洋は無理だろうと思ったら「ヘイエルダール」が実証しているのを忘れてはいけない。エジプトの5500年前のあるミイラからは南米のみ原産のコカイン、タバコが見つかっている。
http://plaza.rakuten.co.jp/hinekuremono/diary/2003-10-13
http://plaza.rakuten.co.jp/hinekuremono/diary/2003-10-15/

光と水のダフネ VOL.12 [DVD]

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「完全引用」
http://www.isis.ne.jp/landscape/020222.html
 はるか彼方の神話的原型の方から現実をつむぐネルヴァルは、旅のいたるところにヨーロッパの正気を狂気に見せてしまう諧謔をひそませる。およそオリエントに入るにあたって奴隷市場から入るとは、よくもこんな遍歴が物語できたものだ。
 メースン(石工)の組合の隠された起原を、その入会儀式を下敷きに構成したストーリーによって追い求める遍歴には、いたるところに解きがたい問いが秘められている。東方の隠秘への入口、聖ゲオルギウスが守りたまうヨーロッパの東の境界をこえて、カイロに入ったとたんに出されるのが、一人の奴隷女の生き方が問いかける近代の自由のゆらぎである。それは西から東を遠望する精緻な眼差しが立てた問題だが、東のはてから中央アジア、ペルシア、そして中東を遠望する眼差しがとらえたことのないゆらぎでもある。
 トルコ帝国治下のカイロに住民と同じ生活をしようと貸し家に住もうとすると、奥方のない人には家を貸さないということがわかってくる。そこで、コプト人の女性と結婚しようとすると、いたいけない少女が母親といっしょにやってくる。もっとも、その前にコプト式結婚式の異風な光景や解釈が展開しているわけだが、これはやっかいだということで、女奴隷を買って奥方に見せようということにする。それで奴隷市場に分け入ると、イスラム文化における奴隷が見えてくる。そしてマレー出身らしい気高い身分だという美貌のゼイナブを手に入れた。
 それはアメリカ合衆国の悲惨な黒人奴隷やキリスト教国の人間を剥奪された奴隷とはまったくちがっていた。なんといっても、イスラム文化圏の奴隷には私物の所有権があるし、主人が気に入らなければ、とり替えることもできた。女奴隷との生活は、こんな風である。
  今度は彼女が料理をする番だと、召使い兼通訳のマンスールに言わせたところ、 「旦那さまに言ってちょうだい。私はカディン(奥様)でオダルーク(召使い)じゃないんだって、 それに、あたしにふさわしい暮らしをさせてくれないのなら、パシャに手紙を書くから」
 奴隷を買ったのは用をさせるためだと反論すると、マンスールは主人に向って、 「パシャに申し出れば、どんな奴隷でも雇い主を替えることができるってこってす」
 この成り行きはおもしろい。いったい奴隷とは何だったのか。いろんな社会があるから、奴隷といってもずいぶんちがう。奴隷の共通項は、もろもろのサービス、事務処理から美貌、武術まで、ときには教授能力、医療技術、それから統治能力まで、雇い主に技能を売って満足させる遊民のことで、このころのイスラム文化圏では奴隷は生き方の常態の一つなのだ。何といっても、イスラム文化圏には奴隷王朝さえあった。それは、この物語の背景となったトルコ帝国の勃興とも関係している。
 エジプトとインドのガンジス流域に成立した二つの奴隷王朝が、チンギスハーンの子孫が率いた軍勢をくいとめた。エジプトではマムルーク朝という。マムルークはもとは黒人奴隷(アブド)以外の白人系の奴隷である。イスラム勢力がアフガニスタンからパミールにおよぶと、モンゴル高原の北から移動してきたトルコ人が優れた騎馬戦力を売って傭兵となり、イスラムの先鋒となった。
 これがマムルークの中核である。流動する遊牧世界ではみずから目利きして手に入れた奴隷ほど信頼できるものはない。イスラム教の法皇アッバース朝のカリフは、家臣や異端を制圧するために奴隷のマムルークを親衛隊として組織し、カリフ・ムーターシムのとき、軍団の指令官、地方総督に抜擢されるものも多かった。
 ヨーロッパから十字軍が攻めよせたとき、サハラのベルベル軍団、アブド軍団を率いたサラディン王は、さらにマムルーク軍団を編成した。この奴隷軍団はヨーロッパの野蛮をたしなめるかのようにイスラム騎士の誉れを高めた。サラディンの死後、バフリー・マルムーク軍はクーデターをおこし、宮廷女奴隷ジャジャル・アッドゥッルを初代スルタンとする王朝を樹立する。しばらくスルタンはその位を最も信頼できる有能な奴隷から奴隷に譲られ、十字軍と戦い、バクダードのカリフを保護して、イルハーン国の西進を防ぐ。このマムルーク朝は安定期に入ると、カーラウーン家のスルタン世襲となって十九世紀までつづく。ヴェニスの商人複式簿記を教えたのもマムルーク商人なのだ。
 インドでは奴隷王朝がはじめてのムスリム政権で、アフガニスタンからガンジス流域に南下したゴール朝の英雄ムハンマドの奴隷にして部将アイバクがデリーに政権を樹立した。その奴隷にして軍師であったイルトゥートミシュが北インドを制圧し、その娘ラジーアが皇帝となった。ここでも、女奴隷が皇帝になったわけだ。このデリーのスルタンがモンゴル軍をインダス河谷にくいとめた。
 このような社会で自由人というのは誰かというと、土地や施設を私有する貴族、豪族一族、富豪、農民などということになる。ノーマッドはみんな、徒手空拳でみずからの才能を売る奴隷なのだ。こうなると、有能な奴隷が政府をつくって自由民から税を徴収するかわりに、それを守ったり、宗教紛争や地域紛争を仲介していたということになる。こうした能力主義の奴隷体制では、女性がトップにもなりえた。イスラムの奴隷は自分を売った代金を、奴隷商人に手数料を渡すけれども、自分で受け取った。こうしてみると、イスラムの奴隷は契約金をもらってチームのために働く野球選手とどこがちがうのか。ヘッドハンターやリクルート業者は、イスラム文化から見れば奴隷商人と原理的には変わりはない。
 中国の奴婢にも似たようなところがある。奴婢には戸籍がなく、財産目録に登録され、売買・贈答される。こうした奴婢は、それを買えるほどの権勢に直に仕えるのだから、策士や技能者が奴隷商人に望みの諸候に売ってもらい、奴僕となって才能をあらわすことも多い。前漢武帝は奴婢の衛子夫を皇后とし、その弟の奴僕の衛青は匈奴を平らげた偉大な将軍となった。その甥の霍去病も対匈奴戦に軍功をあげ、子孫の霍光は名宰相とうたわれた。
 たちの悪いのがヨーロッパの奴隷概念で、法皇のもとに王冠をいただいた皇帝が異教徒の討伐権をもち、キリスト教圏を拡大するという構造の中で、大量な捕虜や被誘拐者を人間とみなさず酷使した。ヨーロッパの奴隷はスレーブというが、討伐の対象となったスラブ人に由来する。それはヨーロッパから外延におよぼされ、キリストの「万人を愛せよ」というテーゼは片隅において、カラードを人間とみなさなず、アフリカ人やアジア人を捕らえて売買した。売られた者には一文も渡さず、動物以下の苛酷な環境下でこき使った。その最悪なものがヨーロッパ諸国の植民地でおこなわれたプランテーションの奴隷やアメリカ合衆国の黒人奴隷だった。
 このヨーロッパ的奴隷観は、日本におけるキリスト教禁令の端緒ともなった悪弊で、豊臣秀吉が出した禁教令の第一条にポルトガル・スペイン人が日本人を誘拐して、マカオやマニラに奴隷として売買しているのは不当であり、キリスト教宣教師が神の教えに背く奴隷売買の禁止に協力しないことが挙げられる。秀吉はカソリックの教義や文化に理解を示し、少年遣欧使節を派遣したが、諸国からの訴えによって、その数年後に禁教令を出さざるをえなかった。もっとも、その後の島原の乱を中心とするキリスト教弾圧は極端なものでいただけない。
 こうした諸文明に普遍的な奴隷概念は日本では影が薄い。古くは遠征によって捕らえた捕虜を奴隷としたり、特殊技能者を贈答、献上することは諸文化と同じだった。そして、律令に中国の奴婢制をモデルとした「五色の賎」を定めたが、売買・相続の対称となったのは最下層の私奴婢のみだった。これは地域の族長以上のものが私有し、専用のサービスや技芸にたずさわった。しかも、政府は私奴婢の基本手当てのために、一般人の三分の一の口分田を与えた。
 これは世界の奴隷観からすれば、かなり特殊であろう。日本では、その後、家単位の自立政策を貫徹する方針がとられ、良民が勝手に奴婢になることは禁じられた。ただ、天災や争乱にゆって、自立した生活ができなくなったときに一時的に身を売って奴婢となってもよいという臨時法を発令している。
 こんな具合だから、今もって日本人の奴隷観には‘牛馬のごとく’などという常套句を冠した空想的なものが多く、歴史にヨーロッパなみの奴隷制を発見したがる傾向もある。奴隷の影が薄いことによる欠陥は、才能の価値やその売買についての議論にあまりにも疎くなることにある。
 ヨーロッパは苛酷な奴隷概念を、天職の発見というところで解体して近代市民をつくりだした。しかし、それは隷民たちの知られざる深い智恵を失わせた。ヨーロッパの自由民は長らく玩味者となり、消費者となって、つくることを隷民におしつけてきた。だからこそ、‘つくる’神が隷民に宿るようになったのもとうぜんだろう。ヨーロッパでは、その神は賎民の間に信仰された‘マリアとなってあらわれたイシス’である。ネルヴァルが構想した東方への遍歴は失われた女神によみされた‘つくる人間’の本性を求める。遍歴の道連れとなった奴隷女ゼイナブは変身自在のイシスの化現でもある。それにしても、自由民というのも、なかなか諧謔的な概念だ。