*闘争的メシア
ダビデ(「偉大なる指揮者」の意)=エルハナン・ベン・エサイ
小作人はローマに農産物税として25%、その残りに最大22%の神殿税を納めていた。
タムルード:真のユダヤ人は娘を「土地に縛り付けられた人=ガリラヤの小作農」に嫁がせるべきでない、彼らは「不潔な動物」だからである。
・ラビ・エレアザル:畜殺禁止の神聖日でもガリラヤ人は殺してよい。
・ラビ・ヨナハン:市井の人を魚の如く切り裂いてもよい
レスタイ(盗賊)、ゼラト(熱狂者)、シカリイ(短剣の男)
・フラウィス・ヨセフス=ヨセフ・ベン・マティアス:「ユダヤ戦記、ユダヤ古代誌」
37年31歳でガリラヤ総督、ユダヤ解放戦で将軍、ヨタパタ包囲戦で投降し、ウェスパシアヌスをメシアと呼び更には息子のティトゥス共々ローマ皇帝に成ると予言した。
・ヘゼキア:ガリラヤ北部全域を支配していた盗賊の首領、ヘロデに処刑される。
紀元前4年ヘロデ死後
・ペラエアの奴隷シモン:エリコの町・神殿・田園の豪奢な住居を焼いた。
・アトロンガエウス:もと羊飼いで「自らを王と宣言」した。兄弟4人はローマ人に殺される。略奪行為でユダヤ全域を混乱させた。シリア総督ウァルスは秩序回復の為に2000人の首謀者を磔にしなければならなかった。
ガリラヤのユダ:ヘゼキアの息子?、王権を切望し、大変賢いラビと形容されている。紀元6年のローマによる人口調査を「拒否」するよう呼びかけた。調査に応じる者の家屋は焼いた。ユダの息子2人は磔、また1人は68年から73年の革命の当初に自らをメシアと主張した。マサダの抗戦指揮者はこのユダの血族。
・トロマイオス:大規模盗賊団の首領44年に捕縛。
・テウダス:トロマイオス捕縛後、砂漠に出現したメシア。従う物は家屋・財産を捨ててヨルダン河の畔に集結した。ローマ総督クスピウス・ファドゥスがテウダスの首を取り従う者を殺戮した。
50年の過越しの祭に1人のローマ兵が巡礼者・参賀者に向かって穴をまくって放屁(トルコの江頭を思い出す)をした。人々は騒然となり装甲歩兵が動員され3万人(3千人?)が轢死した。
・エレアザル・ベン・デイナイオス:「革命的盗賊」20年山中に潜み52年大規模反乱を起こす。シリア総督クマヌスが介入捕縛した者は十字架、新総督フェリックスの代で壊滅、捕縛されたエレアザルはローマに送られた。この盗賊団と結託した住民は数え切れなかった。
このとき祭司長ヨナタンがシカリイ=短剣の男に暗殺される。また、インスピレーションを得て自由が近づいている兆候を神が示すという口実で群集を荒野に連れ出し革命を意図する扇動者が度々出現した。
ユダヤエジプト人の偽の預言者:幾千人の「愚か者」を集めて砂漠に連れ出し方向を変えてエルサレム襲撃を企画した。
宗教的ペテン師と盗賊の首領が力を合わせ人々を反乱に駆り立てた。富める者の家を略奪し、住人を殺害した。
66年盗賊はありふれた存在となっていた。寺院にも潜伏し祭司長アナニアスの息子エレアザルと同盟した。
・マナヘム:ガリラヤのユダの生き残った最後の息子マサダ要塞を急襲、武器を奪ってエルサレムに行軍しローマ兵を追い出した。反乱軍の主導権を握り祭司長アナニアスを殺害して寺院も手中に収めた。王の装束で着飾り寺院の聖所に入ろうとしたが、エレアザルに襲われて「長い拷問による死を迎えることになった」
66年ウェスパシアヌスが65000の兵で攻略を開始、70年ウェスパシアヌスの息子ティトゥスエルサレムを焼く。100万人のユダヤ人が死傷した。
マサダのエレアザル:ヘゼキアやガリラヤのユダの子孫、生き残った960名を自決させた。
・バル・コホバ:「星々の子」132年20万で挙兵ユダヤ独立を3年間維持する。祭司長ラビ・アキバは彼をメシアと呼んだ。最終的には1000の村が破壊されて50万人が死に多数が奴隷となり故郷を失った為か、その奇跡的な偉業(カルタゴハンニバル以来の)にも関わらず後のユダヤ学者は「嘘つき息子」と罵った。

・平和的メシア
紀元71年ローマ帝国内のユダヤ人は300万〜500万人(パレスチナの2倍超)在住し、他の民族集団にはない特権を享受していた。また、非パレスチナ由来のユダヤ教改宗者は年々増えていた。イエスの殺害を容認した懲らしめにエルサレムの神殿が破壊されたとマルコで強調されていることから、世俗の野望を持たない無害な平和主義者であることをローマに示すためユダヤキリスト教徒は喜んで非ユダヤ人(非割礼)改宗者を受け入れた。
サロー・W・バロン:一般通念とは逆に帝國内の小作農・奴隷の中にキリスト教は全く広まらなかった。パガヌス=農民とはキリスト教徒にとって「異教徒」と同義語であり、キリスト教が都市部在住流民の宗教であたったのが解る。ユダヤ人が3分の1以上に達している都市では、この「新手のユダヤ教」が勝利の行進をしていた。キリスト教に宗旨替えせずに従来のユダヤ教徒であり続けた者はローマから迫害対象となることはキリスト教徒より遥かに高かった。キリスト教徒迫害が本格化するのは紀元150年以降のことである。

ユリアヌス帝の死に際の言葉は「ガリラヤ人よ、お前たちの勝ちだ」 

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