281.49

1969年1月7日〜7月24日の間にベトナムで米陸軍狙撃兵には1245件の死体が確認された狙撃記録がある。それによると1人殺害するのに要した銃弾数は平均して僅か「1.39発」で殆ど外していない。戦争が終わると一般兵がその「狙撃兵」を避ける様はまるで「不可触賤民」の扱いだったという。比較して一般兵は1人殺傷するのに「50000発」の銃弾を消費した。
1876年6月16日ローズバッドで米兵は25000発の銃弾を使いネイティブ・アメリカンの死傷者は99人、命中率は「0.4%」
1870年ビィッセンブルグで仏軍は見通しの良い戦場を進撃してくる独軍に48000発の「銃弾」を浴びせた筈だが、倒した敵は404名で「0.84%」、なお被害の大多数は同時に行われた「砲撃」によるもの。


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 1313年、ハインリヒ7世が死に、次のローマ王位はハプスブルク家のフリードリヒ(アルプレヒトの子)とバイエルン公ルートヴィヒによって争われることとなった。スイスの3邦はもちろんルートヴィヒに加担した。たまたまその頃、ハプスブルク家の保護下にあるアインジーデルン修道院シュヴィーツとが境界争いを起こしており、14年1月にはシュヴィーツ側が修道院を襲って略奪暴行を働くという事件が発生した。同年秋、フリードリヒの弟レオポルドの率いるハプスブルク軍9000がシュヴィーツを討伐すべく出陣した。そのうち2000は頑丈な鎧をまとい馬に跨がった騎士たちである。

 対するシュヴィーツ軍の兵力はウリ・ウンターヴァルデンからの援軍をあわせてもわずかに1300人であった。11月15日、ハプスブルク軍はエーゲリ湖とモルガルテン山に挟まれた細い道路を通って進撃しようとした。シュヴィーツ軍はまず小部隊でハプスブルク軍の行く手をふさぎ、次いで本隊が山の上から石や木を投げつけ、最後に山を駆け下り突撃を敢行した。シュヴィーツ軍の歩兵隊は山道で細長い縦隊となっていたハプスブルク軍の騎士たちを見事に粉砕、ハプスブルク軍は2000の戦死者を出して潰走した。

 シュヴィーツ軍の歩兵隊は付近の地形を知りつくしていたうえに長槍の密集陣とハルバート(槍とツルハシを兼ねたような武器)を巧みに用い、ハプスブルク軍の騎士を落馬させて殺すという騎士道も何もない戦いぶり(騎士同士の戦いでは一騎打ちで相手を捕らえて身代金をとることに眼目をおく)で勝利したのである。この戦い以降スイスの長槍密集陣の勇名は全ヨーロッパに轟き渡り、スイス人は各国の傭兵として引っ張りだことなった。現在でもローマのバチカン市国を守る衛兵はスイス人である(1927年スイス政府は自国民の外国軍勤務を禁止し、以降はバチカンのみが例外となっている)。