こぜと
古瀬戸の生産と流通
まいぶん 愛知 No.57
塚の間に放置された遺体(『餓鬼草紙』より)
 どこの集落から来たのだろう、死者の枕元にともした火からとられた松明を頼りに、三昧聖とともに血縁者だけが、闇にまぎれ、遺体を矢作川の河原に広がる共同墓地に埋葬している。死者が親しい人であっても、隣人はのぞきみるだけで葬送には参加しない。そんな光景が繰り返されていたのが、鎌倉時代の水入遺跡であった。水入遺跡は豊田市渡刈町に所在し、昨年度より第二東名高速道路建設に先立ち、発掘調査が行なわれている遺跡である。
 水入遺跡は矢作川中流域の右岸に広がる低位段丘上に展開する古墳時代中期から中世までの遺跡であるが、江戸時代後半からの頻繁な洪水により2m以上の砂が堆積し、現在は田畑が広がっているため、近年まで存在が知られていなかった遺跡である。発掘調査の結果、鎌倉時代には100基を超える墓が作られ、共同墓地として利用されていたことが判明した。この共同墓地は当時水入遺跡の中央部に入り込んでいた入り江より北東側を中心に展開し、大半の墓は土壙墓と呼ばれる地面に穴を掘り、遺体を土葬したもので、棺の痕跡や蔵骨器などは確認されなかった。また、遺体とともに灰釉系陶器の椀や皿、土師器皿、刀子などが副葬されていた。
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 愛知県内の中世墓は発掘調査による確認、石塔・蔵骨器のみも含め130ヶ所以上におよぶ。
水入遺跡以外でも、近年発掘調査による中世墓の確認事例は増加しており、各方面からの研究により分析が進められている。それによれば、中世墓の初源(何をして中世墓とするかは詳らかではないが)は、12 世紀後半と考えられる。この時期は家の先祖をまつる「屋敷墓」的性格のものが中心で、単独もしくは数基が屋敷に近接して作られることが多い。この場合の葬制は土葬による土壙墓が盛行する。その後、13世紀後半からは集落とは隔絶された丘陵上など青磁椀が副葬された土壙墓水入遺跡で確認された円形の土壙墓一般的な土壙墓県内遺構・遺物集成 No.150� 20〓�発掘調査の行われた中世墓<星印が水入遺跡>に共同墓地を形成するようになる。この頃から仏教的思想の普及により葬制は土葬から火葬へと変化し、墓の形態も蔵骨器をともない、石を積み上げた集石墓が増加する。このような火葬墓は15世紀まで長期にわたり構築されつづけるが、中世の葬制は火葬・集石墓に限定されるのではなく、地域により様相は異なっていた。中世の葬制は、現在のそれとは大きく異なり、「穢れ・忌み」といった死者に対する畏怖の念により左右されていた。
特に非血縁者の場合は、死により家全体が死穢に汚染されることを防ぐため、病気になると死ぬ直前に家から出され、墓地や河原に放置されることが一般的であった。このことは12世紀末に成立した絵巻物『餓鬼草子』の描写や、12世紀前半に成立した『今昔物語集』をはじめとする中世の説話集に記される。同様に、非血縁者だけでなく、貧困なものの多くも葬儀すら出せなかったことも文献資料から窺い知ることができる。さらに、変死をとげたもの、殺害・戦死・事故死・妊娠中の死・自殺など、も中世前期には埋葬せずに放置されることが多かった。但し、死霊が祟りを起こさぬよう、その場に霊をとどめるため、石や柴をつみあげたという(これは放置された遺体の見苦しい様子をかくすために行なう行為であったと考えられ、後の集石墓の起源とされる)。そして、葬儀や墓地の管理に従事するのが、三昧聖や非人と呼ばれた人々であった。それゆえ彼らの活動の場がその名の通り、三昧=墓地(中世前半は塚原、後半では墓原と呼ばれたらしい)となり、丘陵上や河原がその地である事が多い。しかし、近世のように集落単位の形態をとるのではなく、周辺村落の共同墓地として埋葬が行なわれていた。

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