デジャブ:
海馬には神経パルスが走ると「既知である」と感じる特定の部位がある(らしい)。
(正常者でもまれに)回路ショートなのかどうか解らないが「既知であるパルス」が走り、「知らない事が明らかな確信」双方の衝突・食違いを解決する為に「脳」が臨時に記憶を取得したときの「光景(エピソード)」を古い記憶として「捏造=創造」して<意識>に提出されたとき、自分自身にまんまと騙されるのがデジャブ。(*1)
目・耳で得た情報は「ビデオテーブ=大量の静止画+音響」として記憶されている訳ではない、視野の大きさから言えば2、3%(*2)以下の光学情報をベースに人物・背景などの使いまわしの利く記憶部位のコードのリンク集として「記憶」され、必要なときにその都度(コードタグを引張る)再構築しているので記憶の「再現」と「捏造」には明瞭な区別など実はないに等しい。(*3)
巷ではデジャブの説明に忘れていた類似の記憶が蘇るというのがあるが勘違いだと思う。使い古しの大道具(風景)・小道具(顔)を使っているとはいえ、別に過去の記憶事実が必要な理由はないし、忘れた記憶を探す方が大変ではないか?

映画「パットン大戦車軍団」の中でジョージ・パットンが古代フェニキアの遺跡を前に重装甲歩兵として従軍した前世の記憶が蘇るデジャブが描かれていた。
彼は教養のある人物と評されており、詩人で敬虔なクリスチャンだった。
パットンは、詩「鏡を通しておぼろげに」で最初は場所年代も定かで無かったが、後に古代ギリシア重装歩兵の鮮明な姿とキュロス王の軍と対峙したとき鎧を伝う汗や冷ややかな槍の感触、また、イスカンダル・ズ・アルカルナインと共にティルスの城壁にいた記憶、ナポレオンの陸軍元帥ミュラと共に馬を走らせる一将軍の姿などを夢想した。


(*1)捏造=創造の方法として今見た情景を過去の記憶として格納(先回り)という省エネ手法も考えられる。
(*2)正確には測れないとは思うが。ユーザーイリュージョン―意識という幻想のP248に「LGN=外側膝状体ニューロンが受け取る情報の80%以上は網膜(目)からではない脳の異なる中枢からきている。」とあった。
(*3)そもそも映像の構成を担当する脳の領域は視覚像と想像を区別できない。