http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=2040500
無断転載完全引用↓
全くの余談ですが、
「おしゃかになる」の語源は、鍛冶職人があぶりすぎてだめにしてしまったとき、「火が強かった」→「しがつよかった」(江戸弁)→「しがつようか」→「4月8日」=シャカの誕生日というシャレという説もあります。
信憑性は、どっちもなー、って感じですが。
どーもすみません。

http://critic.exblog.jp/303600
ところでこのようなキリスト教正統派成立期に、ひとしくイエスについて語ったある文書のうちに、次のようなものがあるということを知るとき、われわれはひとつの驚きを禁じえない。

シモン・ペテロが彼ら(イエスの弟子たち)にいった。「マリハム(マグダラのマリア)は私どものところから去った方がよい。女は命に値しないのだから」。イエスがいった。「見よ、私は彼女を連れてゆく。私が彼女を男性にするために。彼女もまたお前たち男性と同じ霊になるために。なぜなら、どの女も、自分を男性にするならば、天国に入るのだから」(語録番号114)

もちろんこれは、聖書の正典のなかに含まれているものではなく、いわゆる聖典外典、非正統なものとして除外されている『トマスによる福音書』のイエスの語録の一文である。この福音書は、三世紀の教父たち(中略)によってその存在が語られつつも、その具体的内容が、二十世紀中葉まで明らかにならなかったのだが、エジプトのナグ・ハマディで発見されたいわゆるコプト語グノーシス文書のなかに、この『トマスによる福音書』も含まれていたために、陽の目をみることになったものである。(中略)

ところで同じくナグ・ハマディ文書のなかには、他の外典福音書といえる『ピリポによる福音書』というものがある。(中略)しかも『ピリポによる福音書』のイエスの言行について語った他の部分には、およそ正典の福音書では想像できない、イエスの行状が語られている。
 
三人(の婦人)がいつも主(イエス)とともに歩いていた。彼の母マリアと彼女の姉妹と人びとが彼の伴侶と呼ぶマグダラ(のマリア)である。なぜなら(マグダラの)マリアは、彼の姉妹で彼の母で彼の伴侶だからである。(福音32)

また他につぎのような言文もある。
 
「そして(救い主の)伴侶はマグダラのマリアである。主は彼女をどの弟子たちより愛した。他の弟子たちが彼女のところに来て、彼女を非難した。彼らは彼にいった。「なぜあなたはわたしたちすべてよりも彼女を愛するのですか」(中略)

二つの引用文で共通なこととして、マグダラのマリアが、イエスの伴侶(コイノーノス)として規定されている。そしてイエスは彼女を、他の弟子たちよりもよりよく愛した、というのである。彼は彼女の口にしばしば接吻した。弟子たちがそれに対し不満をもってなぜ自分らよりも愛するのか、といっても、自分は彼女をより愛するのだからと答えた、という。(中略)弟子がマグダラのマリアを排除すべきというのに対し、イエスは「私は彼女を連れてゆく」といっていた。(中略)男性としての弟子たちよりも、女性であるマグダラのマリアを伴侶(コイノーノス)として連れ歩き、彼女にしばしば接吻したイエス像が浮かび上がってくる。

(山川出版社 『民族の世界史 (8) ヨーロッパ文明の原型』 P.279-286)