第6話 太歳と息壌 (1996/03/26)
00006/01001 BYK00070 古澤 祐治 太歳と息壌
( 1) 96/03/26 00:00
【話数】:第6話
【題名】:太歳と息壌
【日付】:1996/03/26
【分類】:怪物
【地域】:中国
【本文】:

  さて,話は再び中国に戻ります.今夜は獏に続いて震旦(中国の古名)の妖
 怪のお話.
  二年前でしたか,中国で巨大なアメーバのような物体が発見されました.土
 中から掘り起こされたそれは,数キロもあるぶよぶよした固まりで,生き物な
 のかどうかもさだかではありません.ゆっくりと動いているところから動物ら
 しいのですが,いったい何の仲間なのか誰もわからないのです.話を聞きつけ
 た学者が発見現場の村を訪れて調べたところ,実はそれは動物ではありません
 でした.「粘菌」という植物の一種です.『風の谷のナウシカ』の原作を読ま
 れた方はご存知でしょう.植物と動物の中間のような粘菌は,無数の仲間の集
 合体として存在している生物です.中国で発見された物はこの珍しく大きな個
 体だったのです.
  中国の文献には,この生物のことではないかと思われる「物体」が二つほど
 出てきます.一つは「太歳」.肉の塊のようで,物によっては赤い菌の固まり
 のようにも見え,数千の眼を持っていると言います.土木工事中にこれを掘り
 出すと,そこにすむ一家が皆死んでしまうと言われます.ひょっとすると毒で
 も持っていたのでしょうか.現代の「太歳」は毒はなかったようで,それを焼
 いて食べた村人は死にはしませんでした.それにしても人間ってなんでも食べ
 ますね.
  もう一つは,「息壌」.生きている土と言う意味で,洪水対策の秘密兵器だ
 ったといわれます.普段は皇帝の管理下にあるのですが,ひとたび解放される
 とまたまたくまに増殖して,あふれる河をせき止めることができるのです.夏
 王朝の始祖「禹」はこれを用いて治水をしました.古代文明の王権には水を制
 する義務があったようですが,その方策として水分を吸って急激に増殖する粘
 菌を使った,というのはお伽話でしょうか.今日はこのあたりで.また明の夜
 会いましょう.

第28話 八幡愚童訓 (1996/04/17)
00028/01001 BYK00070 古澤 祐治 八幡愚童訓
( 1) 96/04/17 00:00
【話数】:第28話
【題名】:八幡愚童訓
【日付】:1996/04/17
【分類】:古代
【地域】:日本
【本文】:

  みなさん,源頼範という人物が編集した『八幡愚童訓』という古典をご存知
 ですか?あまり有名な書ではないので,多くの方がはじめて耳にする名前かと
 思います.この本は16世紀までに完成したとされる説話集ですが,その中に,
 日本古代史の謎を解く重大な鍵が隠されていました.
  『愚童訓』には,こうあります.新羅百済高句麗の支配者たちは領土拡
 大の欲が強く,昔から何度も日本に来襲していたが,神の子孫たるわれわれは
 未だ,敗れたことがない.云々・・・.ここでまず面白いのが,古代朝鮮諸国
 の軍が日本に来襲していたと,はっきりと認めていることです.記紀では,日
 本が新羅高句麗を攻めたという話には事欠きませんが,その逆に日本が攻め
 られた,との記録は全くと言っていいほどありません.白村江の戦いでの敗戦
 を記しているのが数少ない例です.ところが,この『愚童訓』では度重なる
 「本土決戦」を記している.敗れたことはないとはいってはいますが,上陸さ
 れたということは日本側の劣勢を意味していると見るべきでしょう.太平洋戦
 争中の日本では,古代といい近世といい朝鮮は常に日本に打ち破られていたか
 のように教えられていましたが,実際には互角の勢力か,あるいはむしろ日本
 のほうが攻められる立場にあったのかもしれません.
  さて,この『愚童訓』が注目されるのはもう一つ,夷敵の襲来時期と規模を
 事細かに記している点です.記紀に大きくはずれる内容を著すこの文献が考慮
 に値するのも,そのせいです.単に詳細に記されているからではありません.
 その「時期」が,非常におもしろいのです.どうおもしろいのか,それは明日
 のお話で.

第30話 飛鳥朝の侵略者 (1996/04/19)
00030/01001 BYK00070 古澤 祐治 飛鳥朝の侵略者
( 1) 96/04/19 00:00 00029へのコメント
【話数】:第30話
【題名】:飛鳥朝の侵略者
【日付】:1996/04/19
【分類】:古代
【地域】:日本
【本文】:

  欽明朝と言えば,仏教伝来が最大の出来事ですね.われわれにしてみればな
 んのことはないこの事件,当時の人にとってはこの上ない大転換です.なぜな
 らそれはイデオロギー転換であるからです.天神地祇を祀ることを国家存立の
 基盤としていた大和の国が,仏教という新しい支配原理を公式に採用するに至
 ったのですから.そこで考えてみましょう.日本に仏教を伝えたのは百済の聖
 明王といわれます.ただ教典と仏像を送ってよこしただけでしょうか.欽明の
 三代前の継体天皇は越の国から大和に入って皇位に就いた人物です.当時の越
 の国(北陸)とあるからには,高句麗の援助を受けていたことは想像にかたく
 ありません.聖明王の仏教公伝は,この高句麗勢力を排除しようとした百済
 勢力の行動の一環とは考えられないでしょうか.以後数代の大和ははっきりと
 親百済政策を打ち出します.この時期に百済軍の上陸があったと考えるのはあ
 ながち無理な話ではないと思われます.付け加えておけば,仏教信仰を強く主
 張した蘇我氏は,百済からの渡来氏族だとする説が以前から根強く唱えられて
 います.
  敏達朝・推古朝については面白い説があります.小林惠子氏によればなんと
 聖徳太子が渡来人だというのです.氏は太子の伝説や当時の国際情勢を綿密に
 調査した結果,太子の正体は突厥可汗の達頭(タルドウ)だとの結論に達しま
 す.にわかには信じがたい説ですが,著書『聖徳太子の正体』を読むとわかる
 とおり,達頭かどうかはともかくとして,西方遊牧民系の人物である可能性は
 捨て切れません.特に説得力があるのは,太子をモデルにしたと言われる法隆
 寺夢殿救世観音像の冠に,ササン朝ペルシャのホスロー1世のものと同一の紋
 章(三日月と太陽)があしらわれていることでしょうか.太子が西アジアにゆ
 かりのある人物だと言う主張の証拠として有力ですね.その他にも太子の奇妙
 な伝説を明快に解いておられます.『愚童訓』には,異敵の軍は播磨の国に上
 陸したとありますが,播磨には斑鳩寺・太子町など太子ゆかりの地がたくさん
 ありますね.太子の周辺には,蘇我氏秦氏・司馬氏(司馬達等・鞍作止利)
 など,渡来人あるいは渡来説の濃厚な有力者がそろっていることも気になると
 ころです.
  しかし,この私が『愚童訓』でもっとも面白いと思うのは,「天智元年2万
 3千人」の部分です.わたしはこの時期にこの数の外国勢力が日本に来たとい
 う証拠を探していたのですよ.その話はまた明日.さようなら.

第46話 二進法 (1996/05/05)
00046/01001 BYK00070 古澤 祐治 将棋と八卦
( 1) 96/05/05 00:00
【話数】:第46話
【題名】:二進法
【日付】:1996/05/05
【分類】:科学
【地域】:中国
【本文】:

  中国にこんな逸話があるそうです.ある時,将棋盤を発明した男が,皇帝か
 ら褒美をもらうことになりました.望みを問われた男は,自ら作った将棋盤の
 64のマス目に1マス目には1粒,2マス目には2粒,次は4粒,と倍々に米
 粒を置いていって欲しいと頼みました.お察しの通り,安請け合いした皇帝は
 32マス目で音を上げます.なにしろ32マス目だと21,041,851,648粒,なん
 と200億以上,累積では42,043,703,295粒ですから.
  こういう形の話は世界中の説話に発見できます.みなさんも一つくらい耳に
 したことがあるのではないでしょうか.ふろしきで覆える土地を望んで,くに
 じゅうを包める大風呂敷を用意した男.小人に化けて3歩でまたげる土地を約
 束し,巨大な本性をあらわして三界全てを魔族から取り戻したインドのヴィシ
 ュヌ神.しかし,この将棋盤のお話には,もう一つ注目すべき点があるんです
 ね.コンピュータユーザのみなさんには簡単でしょうか.そう,ここで発明男
 と皇帝は,将棋盤を二進法原理の処理装置として用いているようには思えませ
 んか?64マスのマス目を使えば,一度に2の64乗−1(約18該)までの
 数を数えることができます.64ビット処理能力を持っているわけですね.一
 方,皇帝の方は32ビットどまり.まさに現代の高性能コンピュータと普及型
 CPUの対決のようです.
  もちろんこれは将棋盤が8x8マスだったためにたまたまこういう数字にな
 ったのかもしれません.皇帝の挫折も,単にちょうど真ん中で終わったという
 意味であるか考えることもできます.これだけで古代にコンピュータがあった
 なんていうわけにはいきません.ただ,古代中国のある地域で十進法ならぬ二
 進法が用いられていた可能性は考えられるのではないでしょうか地中海世界
 は,十進法とならんで,十二進・六十進の数法も用いられていました.それは
 現代の暦法・時刻単位に生きています.マヤ文明の暦は,13を重要な単位と
 しました.これと同じように,アジアに二進法を用いる社会があったのではな
 いでしょうか.
  中国で発明された「卦」という易術があります.当たるも八卦当たらぬも八
 卦,のあの卦です.あれは,繋がった線である「―――――」状の棒と,途切
 れた線である「―― ――」状の棒を組み合わせて幾通りもの結果を導き出す
 ものです.現代の二進法では0と1の2つの数字を使って数を表しますが,こ
 の卦は2通りの棒を使って表します.大韓民国の国旗の四隅にある模様を思い
 出してください.ここでは2本1組の棒を用いて4通りの数(結果)を表して
 いますね.いわば2ビットコンピュータでしょうか.本来の「八卦」は3ビッ
 トでしょう.このように「卦」もまた二進法原理.将棋と卦,古代中国の進ん
 だ科学の残滓と考えるのは,いかがでしょうか.

第100話 流浪の末に (1996/10/07)
00100/01001 BYK00070 古澤 祐治 流浪の末に
( 1) 96/10/07 00:00
【話数】:第100話
【題名】:流浪の末に
【日付】:1996/10/07
【分類】:民族
【地域】:日本
【本文】:

  われわれはいったいどこから来たのか.近代になってずっと,いえあるい
 は江戸時代の昔から,この問いは日本に住む多くの人々の心を悩ませてきま
 した一方に大陸朝鮮半島に由来する始祖伝説をそなえ,他方で南方太平洋諸
 島にみられるような習俗を伝え,そしてまた遠く中央アジアを思わせる草原
 の記憶まで遺しわれわれの先祖は,いったいどこからどうやってやってきた
 のでしょうか.おそらく彼らは,今私たちが想像するよりずっと遠くから,
 またありとあらゆるさまざまなところから,この極東の海洋国を訪れ,われ
 われを産み,そしてまたそれ以上に数しれぬほど多くの民族が,いったい何
 を求めてか,この地に立ち寄り確かな足跡とわずかばかりの血脈を残したこ
 とでしょう.
  最近こんなニュースを目にしました.−「日本人の祖先に白人」− なん
 でも東大医科学研究所のグループが,親から子にしか感染しないというJC
 ウィルスというものの遺伝子に着目して調査したところ,東北地方の人間に,
 ヨーロッパの白人にしか見られない型の遺伝子が多く見つかったというお話
 です.JCウィルスの遺伝子型は世界中で12系統あるそうですが,このう
 ち日本人に見られるのは4系統.北日本では朝鮮半島タイプ,西日本では朝
 鮮から中国北部・中部に見られるタイプ,沖縄や鹿児島には東南アジアタイ
 プ,そしてなんと東北地方の日本海側では,欧州に多く,しかしアジアでは
 ほとんどみられないタイプのものが,1割から2割もの人の間で見つかった
 ということなのです.このタイプはヨーロッパやトルコの人間,つまり人類
 学的に言えばコーカソイドに特有のタイプであるので,研究グループは,こ
 ういった集団が東北地方に移住して混血した可能性が高いと考えているよう
 です.
  さて,興味深いことに,確かに東北地方にはいわば「白人伝説」とでも考
 えられるべきもの,あるいは白人に関連づけて語られることの多かった話が
 多数残っています.たとえば柳田国男の『遠野物語』には,山に潜む,肌が
 白く目の色が普通の日本人とは違う長身の男女たちが登場しますし,客人信
 仰の典型とも言える秋田の「なまはげ」は,漂着したいわゆるバイキング−
 −赤肌にホーンテッド・ヘルムをかぶり大刃物を振りかざしたその姿はまる
 で鬼−−すなわち北欧系の海洋民族ではないかと言われることもあります.
 また青森には有名な「キリスト渡来伝説」があり,中近東に由来する習俗が
 残っていると主張する人があとをたちません.さらに,平安期の武人坂上
 村麻呂が蝦夷アテルイを征討したという史実は,のちに民間伝承となりま
 すが,そこでは賊軍の大将が「赤頭(あかがしら)」という人物にすり替えら
 れています.髪が赤い凶賊のことかもしれません.加えて田村麻呂自身,黄
 金の鬢(びん)と「鏡のような」大きな目玉を持った巨漢であったと伝える書
 もあり,豪傑・美女ぞろいの坂上氏は実は中央アジア系の渡来人ではないの
 かといわれたこともありましたイラン系のサカ族と関連づけたものでしょう.
 またこれは北海道ですが,フゴッペ洞窟で見つかった謎の岩刻文字は,かつ
 てトルコ系の靺鞨族のものではないかと唱えられた逸話があります.これら
 は今までは,単なる思いつきのこじつけにすぎないと言われてきましたが,
 今回こうした「物証」があがったことで,また違った見方がされはじめるか
 もしれませんね.
  ただし,こうした「古代日本の民族論」を離れた解釈もまたできるでしょ
 うコーカソイドの移住は歴史時代よりもずっとずっと前のことかもしれませ
 ん.また逆に,大航海時代以降,太平洋域に捕鯨や交易に来た欧州人が,密
 かに東北に住み着いた可能性もあります.迫害された宣教師や密航者が隠れ
 住んだというケースもありえます.しかし,1割から2割の人間にそういっ
 た特徴が残ってしまうほど,というのはちょっとすごいですね.列島に不時
 着した白人種は,それがいつの時代であったかは別にして,意外に多数だっ
 たのでしょうかあるいは,そもそもアイヌなど列島の原住民が,もとよりそ
 ういった血を持っていたのでしょうか.東北は古来,政争に敗れた者,都を
 逐われた者が最後にたどり着くところでした.かつてこの島の覇権戦争にや
 ぶれ,北方の辺境に逃れたもののなかに,コーカソイドの血をひく知られざ
 る「原日本人」がいたのかもしれませんね.アジアに流れるコーカソイド
 血,これはなぜなのか私の胸をくすぐる言葉です.これからもまた,時にこ
 の話題について語っていきましょうか.それでは明日第101夜は,「中華
 を駆けた白人たち」をお話しします.

*みなさん,おかげさまで100話目の幻想奇譚を語ることができました.*
*毎日のご愛読ありがとうございます.今後もよろしくお願いします.お暇*
*なときには感想などお聞かせください.遅れがちな筆の励みになります.*

第120話 後皇子命 (1996/11/03)
00120/01001 BYK00070 古澤 祐治 後皇子命
( 1) 96/11/03 00:00 00119へのコメント
【話数】:第120話
【題名】:後皇子命
【日付】:1996/11/03
【分類】:古代
【地域】:日本
【本文】:

  宗像の娘尼子を妻とし,東国海人族の支援を受けて王位についた大海人皇
 子.あまづくしの彼はいったい何者なのでしょうか.昨夜お話ししたとおり,
 その名前があまりにも作為的なもの,すなわち生まれながらの彼の名前とは
 考えがたいものである以上,もともとの真の名前というものがあるはずです
 が,それはいったいなんという名だったのでしょう.彼はなに皇子と呼ばれ
 ていたのでしょう.わたしは,あるいは皇子ですらなかった,つまり皇室の
 出身ではなかったのではないかと考えています.彼こそは,最後の外来王だ
 ったのではないかというのです.ずいぶん前ですが『八幡愚童訓』という中
 世の書物に天智元年に2万3千人の外国軍隊が日本国内に入ったと書かれて
 います.あるいはこれが“大海人皇子”の東征軍だったかもしれません.怪
 しげな話ですが,まあ聞いてください.
  大海人と尼子の間には,高市皇子(たけちのみこ)という皇子がありまし
 た.高市天武天皇の子のなかで最年長.しかし,彼は皇太子とはなりませ
 んでした.それだけではなく,草壁皇子大津皇子たちの間で紛糾した後継
 者あらそいとも無縁でした.なぜでしょう.それは母尼子のの身分が低かっ
 たことが理由だと言われています.皇太子草壁皇子の母は,天智天皇の娘で
 のちの持統天皇.対する大津皇子の母は,同じく天智天皇の娘太田皇女.そ
 れらに比べて九州の一豪族でしかない宗像氏の娘が母だったのでは比較にな
 らないというわけです.
  しかし高市皇子は皇太子にこそなりませんでしたが,天武朝においてそれ
 に勝るとも劣らない重責を担っていました.太政大臣職です.天武天皇は壬
 申の乱後の政権運営において,地方豪族を退け,皇族中心の朝廷を築き上げ
 ました.天武天皇の男子で最年長だった高市は,その中で最高の職について
 いたのです.彼は別名を「後皇子命(のちのみこのみこと)」と呼ばれまし
 たが,通説ではその名は「天皇に次ぐ位の皇子」の意味だったと考えられて
 います.
  しかし,私はそう考えません.天武天皇が外来者ではないのかとの仮説か
 ら,高市皇子も大海人とともに畿内に入った外来者で,天武が皇位についた
 ことによって,「後から皇子となった」人物であったと考えるのです.高市
 が最年長者であるのもそのため.大海人はもと九州地方におり,宗像氏の娘
 との間に男子を設けており,彼らとともの畿内にやってきたのではないかと
 思うのです.そして,天皇家天智天皇の2人の娘を妻に迎えることで皇室
 の1員となり,天智亡きあと皇位を奪ったのでしょう.その結果,もともと
 皇室とはなんの縁もない高市も,皇室の一員,すなわち皇子として受け入れ
 られたのでしょう.あるいは“大海人”は,九州以前には朝鮮半島にいたか
 もしれませんし,もしかするとかつてお話しした,白村江の戦いで日本を破
 った,唐か新羅の将軍だったのかもしれません.天武朝が異常なまでに親新
 羅派であったこと,天武天皇が中国の戦術ともいうべき遁甲術の使い手であ
 ったと書記にあること,天智天皇の弟であるはずなのにその年齢を天智以上
 とする書がいくつかあること,そしてその名がいかにも後からつけられたも
 のであることなどがその傍証です.
  これだけではどうしようもない妄説でしょうから,最後に1つ.私はこの
 「天武東遷」が「神武東遷」神話の1つのモデルであったのではないかと考
 えているのです.神武軍は,天武軍と同じく海人族の援助を強く受けていま
 したし,戦の最中に天照大神からの助けを得ます.そしてその名前.神武と
 天武.この2つの名を考えた漢学者淡海三船は,あるいはことの真相をしっ
 ていて,それを暗示させる称号を大海人皇子に送った,とは考えられません
 か?
  未完成の仮説の披露につきあってくれて,ありがとう.明日からはちょっ
 と気楽に,また怪物達の狂想曲を奏でてみますね.