2.26事件の時の裕仁天皇の言動が載っている箇所がある。(天皇語録から)

 天皇は2.26事件の際に、「鈴木侍従長は生きているか」という電話を、麹町署に通じる宮内省の直通電話で、直接署長を呼びだした-----電話に出た相手は署長ではなく、署長付きの運転手をしていた交通係の大串長次巡査であった。(平民!)
 いろいろと質問する天皇に、大串巡査は、「周囲は兵隊に包囲されています。情況を探ることは、非常に困難なのです」と答えると、天皇は、たいへんいらだって
「ああ、股肱の生死すらも、知ることができない。朕は一体誰にきけばよいのか。・・・・・それでは朕の命令を伝える。総理の消息をはじめとして、情況をよく知りたい。見てきてくれぬか」

 昭和天皇が平民相手にこんなに精神のゆらぎを表わしてしまったのは多分これが唯一だという。「朕は一体誰にきけばよいのか。」大変人間くささを感じる口調だ。

また、1923年12月27日に、東京・虎ノ門にて仕込み杖銃で裕仁(当時は摂政宮)を狙撃した難波大助のその後についても追跡調査を行っている。以下抜粋。
 時の「摂政宮」へ発砲という「大逆」を犯した難波大助は、事件後ただちに「難波家」の戸籍からまずはじき出された。-----1924年11月15日に、刑法第73条の罪「天皇太皇太后・皇后・皇太子・皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」によって、東京・市ヶ谷刑務所で、その表現を後世の役人が、「塗沫」作業をせねば正視に堪えないような状態で死亡せしめられている。