サマール沖海戦での偽らざる実像

昭和19年10月25日サマール沖海戦で「大和」は敵艦を35キロの地点に発見した。敵艦発見後に空母と確認の上、戦闘開始まで6分掛かり、発砲開始まで3分掛かる、敵はその間、反復離脱を開始し、その後煙幕を張り弾丸が届かない42キロ以上離れてしまう。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~JA4DCG/yamato1.files/46cm.htm
?? 大和の15、5メートル測距儀でも30キロ以上離れた敵艦の全容を確認することはできなかった。
?? 主砲の電測射撃は距離20キロの目標に対して精度良好で射撃手段として有効と認められるとされているが実際は電探のみで目標を確認することは不可能であった。

米海軍ではレーダー射撃が実用可能な水準になっていたが、日本海軍ではレーダー技術が遅れており、その性能は劣っていたと言われている。
しかし、レイテ沖海戦時において、海軍が各大型水上艦に搭載した二号二型電探改四は、戦艦程度の目標であれば、夜間15,000m、昼間25,000m(34,000〜35,000m説もある)の補足距離があり、

イージスとは何か
http://homepage2.nifty.com/nishidah/r0003.htm

九一式徹甲弾
Mk46短魚雷

HBX
トルペックス=RDXとTNTとアルミ粉末の混合で比重は1.73である。
トルペックスの感度を鈍くするためワックスを混ぜたものがHBX、水中爆発圧はTNTの1.4〜5魚雷など水中兵器の炸薬

PBX(Plastic bonded explosives)とは爆薬の粒子をナイロンやポリスチレンなどのプラスチックと水中で混合し溶剤を気化させて、プラスチックでコーティングした爆薬粒子に加工したものである。

外的な刺激に対して非常に鈍感であり火災や衝撃にさらされても爆発しない安全性を持ちながら砲弾などに圧填する場合に理論上の最大値で97%もの高い充填率を出すことが出来る。
また非常に狭い空間に充填することが可能であり、1ミリ以下の薬径でも爆轟する。 そのために現在では砲弾やミサイルの炸薬として広範囲に使用されている。

戦艦大和VS護衛艦むらさめ
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Study/Study019.html

http://www.boeing.com/defense-space/missiles/harpoon/harpoon.htm

http://yasai.2ch.net/army/kako/972/972602816.html

【もし、戦艦大和護衛艦が撃ち合ったら?どうなる】
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=army&key=972602816
【大和と護衛艦の撃ち合い Vol2】
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=army&key=986138260
【大和vs護衛艦3(護衛艦主導の場合)】
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=army&key=987054794

http://yasai.2ch.net/army/kako/990/990681808.html

戦艦大和護衛艦の対艦ミサイルで撃沈できるか?
http://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/calcula/yamato_vs_harpoon.htm


また火災だけでは戦艦は沈まないとの御指摘に対してですが、史実における大和
沈没の致命的要因の一つは3番主砲塔バーペット付近中甲板(ヴァイタルパート
の外です)で炸裂した1000ポンド半徹甲爆弾の火災による、3番主弾薬庫への誘
爆であると推測されています(なぜか史実では3番主弾薬庫への注水が行われま
せんでした)。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210766652

回答日時: 2007/2/12 18:35:21 回答番号: 34,937,382

裏づけに手間取りましたが、下記の通りで間違いないと思います。(点線より下の情報とも矛盾していません。)

■[情報1]
ヨハネ書 19章31節によれば,イエスの死の翌日は「大いなる」安息日でした。通常の安息日とニサン15日(無酵母パンの祭り。15日〜21日まで祝われた祭りで、その初日は聖会であり「安息日」でもありました)が重なったため,その日は「大いなる」安息日になったのです(レビ記 23:5〜7参照)
■[情報2]
ユダヤ人の安息日は金曜日の日没から土曜日の日没まででした(ユダヤ人の一日は夕方から夕方までの期間です)。安息日には仕事をしてはいけませんでしたから、安息日のための「準備の日」は金曜日の日没までに終えていなければなりませんでした。
■[情報3]
律法は,杭に掛けられた死体が「夜通し杭の上にとどめられるべきではない」と規定していました(申命記 21:22,23)

これらの聖書の情報を総合すると進行状況は以下の通りになります。
ニサン14日(日没[木曜]〜翌日の夕方[金曜]まで)……最後の晩さん → 捕縛 → 裁判 → 処刑 → 安息日の準備
ニサン15日(日没[金曜]〜翌日の夕方[土曜]まで)……大いなる安息日

[結論]
点線の下にある聖書の他の情報も踏まえて、ニサン14日が金曜日と重なったのは 「西暦 33年」だけです。そのときの「ニサン14日」は、ユリウス暦で4月3日(グレゴリオ暦では、4月1日)に相当します。また、イエスは金曜の午後三時ごろに亡くなりました。(マタイ書27章45節、マルコ書15章33節、ルカ23章44節の時刻、「第六時」は今の時間で昼の十二時、「第九時」は午後三時を指しています)

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■イエスバプテスマは西暦28〜29年(下記情報の3年半を逆算すると、29年の秋ごろ)となります。
カエサル・アウグスツスは、西暦14年8月17日(ユリウス暦の8月19日)に死去。この情報を基に、ルカ3章1節の「ティベリウスの治世第十五年」は、西暦28年8月17日から29年8月16日までの間です(但し、ティベリウスが実際に皇帝の座についたのは9月15日[ユリウス暦で 9月17日]です)。
■イエスの地上での宣教期間は3年半です。
ヨハネ福音書を見ますと、「過ぎ越し」の祝いに直接3回言及しています(ヨハネ 2:3、6:4、13:1)、そして、2章13節と6章4節の間に,別の過ぎ越しがあったといえる十分の根拠があります(理由は以下の通り)。

エスは西暦30年の過ぎ越しの後,ユダヤで ある期間宣教活動をしてから北のガリラヤに向かわれました。それは収穫までまだ4か月あった時期です(ヨハネ 4:35)。ヨハネは,その4章の中で,長期に及ぶイエスガリラヤでの宣教の出だしの部分を紹介しただけで,ヨハネ 5章1節にこう記しています。「こうした事ののち,ユダヤ人の祭りがあって,イエスエルサレムに上って行かれた」。この祭りが何であったかを判断する助けとして,ベツサイダでイエスが5,000人に食物を与えた奇跡をどの福音書も記録していることに注目できます(マタイ 14:13‐21。マルコ 6:32‐44。ルカ 9:10‐17。ヨハネ 6:1‐15)。ヨハネ 6章4節で過ぎ越しが近付いているとされ,マルコは緑草に言及しているので,この奇跡が春に起きたことが分かります。しかし,マタイ,マルコおよびルカの記述は,この奇跡の起きた時期をイエスガリラヤでの宣教,つまりその地方での3度目の旅行もかなり経過してからのこととしています。ガリラヤでの宣教の始めからヨハネ 6章4節の過ぎ越しまでの間が1年足らずであったとすれば,とてもその期間内にすべてが起きたとは考えられないほどの出来事が共観福音書に記されていることになってしまいます。
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追加:
cioccolatonuovoさん の回答も興味深く読ませていただきました。ただ、ヨハネ書 19章31節には、イエスの死の翌日が「大いなる安息日」と言われています。もし、党派によって用いられる暦が異なっていたのであれば、「無酵母パンの祭り」の日にちが党派によってズレることになり、イエスの死の翌日は「通常の安息日」と見なしていた派と「大いなる安息日」と見なしていた派に分かれていたことになってしまい、ヨハネ書 19章31節や他の福音書の記述と調和しなくなってしまう気がしますね…。


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回答日時: 2007/2/12 21:54:56 編集日時: 2007/2/15 08:01:19 回答番号: 34,942,241

まず、理解しなければならない時代背景は、当時のユダヤ暦は一つではないということです。

エスの時代には、伝統的な古代ユダヤ暦の他、ヘレニズム(ギリシャ)式のメトン周期を用いた公用暦がありました。意外なことに、神殿サイドが採用していたのは、当時の異国文化、ギリシャ系の暦でした。また、このギリシャ系の暦でも「サドカイ派の多数派の暦」と「ファイサイ派等の暦」とに差異があったとも言われます。異なった日付の数え方の存在は、ユダヤ教の伝承ハラカにも伝えられているもので、総合的に見て、当時の暦に乱れが伺えます。当時の公用暦は、現代ヘブライ暦のような規則化された暦ではなく、評議会によって都度調整が行なわれる暦でしたので、社会的混乱が暦にも影響していたのかも知れません。

また、エッセネ派は、古代ユダヤ暦を主張していました。厳格な宗教性を求めていた彼らには、異文化由来の暦を許容出来なかったことは、想像に難くないと思います。(イエスや弟子達はどの暦を正統と見ていたのでしょうか?これについては信頼できる記録がありません)

ただし、曜日については、どの暦のグループでも一致していたと見られています。当然ですが、曜日・安息日がずれていては、同じ社会を構成できないからです。共観福音書ヨハネ福音書で受難日程の差異が指摘されますが、やはり曜日では一致しています。四福音書の記述によれば、イエスの受難は、ギリシャ系の暦におけるニサン月14日の金曜日(ヨハネ福音書)もしくは、15日の金曜日(共観福音書)ということになります。上記の暦の状態にも留意すると、これは違う日を言っているのではなく、同じ日を違う暦方式で表しているのかも知れません。聖書記者やその共同体はユダヤ文化の中にあり、十分なユダヤ文化理解があったとみて良いと思います。曜日や過越祭の慣習と関わっている受難の出来事は、曜日に関しては正確に伝承されていた可能性が高いと思います。 (補足*)

教会の伝統では、かなり初期から、イエスの受難について、 キリスト紀元でいうところの30年4月7日説と、29年3月25日説がありましたが、不確定の要素があり、現代でも確たる事は断言できていないと思います。


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ちなみに 現代ヘブライ暦は、メトン周期をベースとして、後世に規則化された太陽太陰暦です。
メトン周期をベースとしている点では同じでも、イエスの時代の公用暦とは同じではありません。
参考:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q131...
ご質問で提示されている暦は、現代ヘブライ暦の仕組みで遡ったものだと思いますので、これと聖書記述をつき合わせるのは、あまり有意義でないと思われます。

また、神殿の崩壊などユダヤ社会の破壊がみられた紀元70年代から2世紀前半では、上記の評議による暦の調整は機能不全の度合いを強め、ディアスポラ下での多様な暦の実践へとなってゆきました。新約聖書は、そういった混沌とした時代の中で記されたものでした。


補足*: 暦のズレは、過越の食事のズレをも意味します。一部の研究者は、イエスは古代ユダヤ暦における過越の食事(火曜日が14日となる暦での夕食)を行ったのだ...と主張します。こうすると、初期キリスト教の一部で主張されていた火曜説とも符合し、捕縛から十字架までの窮屈な時間割にも説明がつきやすくなります。ただ、この火曜日説は学術的には存在するものの、定説化はしていません。イエス達の暦と神殿サイドの暦との差異について言及した聖書記述がなく、唐突感が否めません。一方、福音書が書かれた頃は 暦の乱れがイエスの時代より進行していたと見られ、伝承が断片的で受難の日程が既に不透明になっていた可能性もあります。暦の乱れの記述を避けたい意図があったのかも知れません。いずれにせよ、どの説でも確証は不十分で、決定的なことは言えない...というのが現状だと思います。

回答した人: cioccolatonuovoさん 7-3 この回答内容が不快なら