http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M50/M509115/5.pdf
筑波大学体育科学系紀要 24:47―56, 2001.
明治期日本における武士道の創出
鈴木 康史
The Invention of The Bushido in Meiji Japan
SUZUKI Koshi

This paper is intended to reconsider the Bushido in Meiji Japan as a tradition invented in the modern age. Many people believe that the Bushido has been the symbol of the soul of Japanese since our country began. But in fact, the tradition of the Bushido was invented and we were made believe that it is the identity of Japanese because it lasted from the beginning of this country. A nationalist, Inoue Tetsujirou had a great role in this process. He said that the Bushido, which was limited within elite Bushi class in pre-Modern age and declined first 20 years of Meiji period, must be revived as a national spirit, because Japanese had been always militant people. Another famous Bushido preacher, Nitobe Inazo went different way, when he published “Bushido:The Soul of Japan” in English. The Bushido compared with Chivalry was easy to understand for foreign people, when he changed militant spirit into ethical one and played a great part in suppressing the raise of the yellow peril movement during the Russo-Japanese War.
In this way the nationalistic and internationalistic Bushido was invented in Meiji Japan.
Keywords: the Bushido, Invention of Tradition, the militant, ethical system.

1.はじめに
ホブズボウムは『創られた伝統』5) において,近代国民国家で「伝統」と考えられている数多くのものが,実はごく最近に作り出されたものであることを論じている。祝日,祭典,国旗,国歌,英雄,国家的儀礼,そしてイデオロギーにいたるまで,「伝統の創出は,数多くの国々で種々の目的のために積極的に行なわれた(p.407)」のである。
このような「創出された伝統」は「『国家(ネーション)』とそれに結びついた現象,たとえばナショナリズム,民族国家,国家の象徴,及び歴史その他に深く関わっている(p.25)」とホブズボウムは言うが,近代日本においても,ここで言われているような諸要素は国民国家形成期に観察できるものであり,しかも明治維新において伝統との切断によって文明開化の道を歩みだした近代日本においては,諸外国よりも多くの伝統が「創出」されている可能性すらあるにちがいない。
本論文は,このような視点から明治期の「武士道論」を分析するものである。われわれは現在においても,たとえば,海外で活躍するスポーツ選手を「大和魂」「サムライ」「武士」などという言葉で形容するが,このような使用法に明らかなように,「武士道」にまつわるこれらの言葉の群は明らかに近代以前とは異なった対象に対して象徴的に使用され,それらはいまなおナショナリスティックな情動を伴っている。ところで,近代日本において,「武士道論」は二度ピークを迎えている。第一のピークは日清戦争から日露戦争後に至る時期(明治30年前後に始まり,30年代後半から40年代初頭あたりまで),第二のピークは第二次世界大戦時(昭和10年代)である。本稿はまず,その第一のピークに焦点を当て,そこにおいて,いかなる形で武士道が「創出」され、その背景には何があったのかを,いくつかの武士道論から実証的に考察するものである。

2.先行研究の検討と問題の設定
本研究に重なる問題意識から「武士道」を取り上げた研究注1) には太田雄三30) がある。太田は当時の武士道論に共通するものとして,「武士道の非歴史的性格」すなわち「歴史的な武士の有した価値観とは相当違うものに武士道という名を付けた(p.68)」点を指摘しているが,この主張は,近年の「武士」研究の進展に伴う新しい武士像の提示のなかで実証的に示されてきているのである。
その第一にあげられるのは武士=芸能人説を提唱する高橋昌明35) であろう。高橋は戸田芳実らの議論を引き継ぎ,武士を経済に一元的に還元して定義する議論に対して「武士の戦士的側面」に着目し,「『武』という技術によって他と自らを区別した社会的存在(p.45)」としての新しい武士像を提示している。このような規定によって武士の起源は遥かに奈良時代にまで辿られるなど,高橋は随所に刺激的な議論を行うが,ここで本稿との関連で着目すべきは,中世史が一気に近代史へと連結される地点,つまり同書にて高橋が否定する武士像が,では誰によって,なぜ描き出されたのか,という点になる。高橋は東京帝国大学史学科教授原勝郎について,「原の議論には,日本の古代から中世への転換の過程に西欧的な歴史発展の道筋を『発見』するという志向と,明治末年の本格的な帝国主義へと傾斜してゆくナショナリズムが渾然一体となって」おり,「武士道の意義を称揚し」たのも「それがまさに武士の文化であり『日本固有』の精神を体現するものであったから(p.4)」だと述べる。日清,日露戦争を勝ち抜いた日本を平安末期東国の辺境から勃興した「武強」の武士に重ね合わせ,彼らによって外国(中国)の影響を受けた「文弱」で「懶惰驕慢」な貴族が打倒されるという構図こそ原の抱いたもの注2) であり,高橋はこれをわれわれがいまなお抱く武士/貴族観の「創出」の過程におけるの一つの現場として特定するのである。
以上の議論を見れば,高橋の著書のタイトルでもある「武士像の創出」は,言及こそないが,ホブズボウムの枠組みに重なることは言うまでもないだろう。これは関幸彦31) が「武士の発見」として述べる事態にも対応する。関も原勝郎や,朝河貫一,福田得三らの史家に言及しつつこう述べる。「明治後期は…武士と封建制を発見した第一段階といえる。『西欧の発見』のなかに世界との同居を確認したところから,第二段階は特殊日本的な側面への評価がなされる時期である。大正―昭和前期に及ぶこの段階は『日本の発見』に焦点がすえられた。(p.250)」
これらの議論から,「武士」「貴族」「中世」「封建制」など,「武士道」にまつわるさまざまな概念は「国家主義」対「世界主義」,「国粋保存」対「脱亜入欧」といった対立軸を基調とする明治日本という特定の時代と場所においてまさに「創出」された,決して自明の概念ではないということが明らかとなろう。われわれのテーマである「武士道」とてもおそらくそれは同様である。次節にて述べるように,「武士道」の歴史については既に当時から幾つかの疑問も投げかけられていたし,必ずしも明治人たちが,そのことに無自覚ではなかったこともいくつかの史料から見出せる。では具体的に「武士道」はいつ,誰が,どのような力学の中において,作り上げたものなのか。節を改めて論じてゆくこととしよう。

3.士風の衰退と武士道の「創出」
さて,われわれが武士道と聞いてまず思い出す著作『武士道』の著者新渡戸稲造はのちにこのような回想をおこなっている。
私は武士道といふものについて,三十年ばかり前,少し書いて見たことがある。その頃武士道といふ言葉は,あまり世の中で使はなかった。全然ないわけではなかったが,使はれてゐなかった。
(中略)また末松子爵の如きは,かつて日露戦争の頃,倫敦に駐在されてゐて,頻に武士道を説いた。ところが,あなたの国には,武士道といふ言葉は昔なかったさうではないか,といはれて,末松さんが非常に面喰ひ,その出処を探したけれどもない。武士といふ二字はあっても,武士道の三字はない。弓矢とる身などの文字はあるが,武士道はない。そこで遂に,この字は私が好い加減に拵へたものだらうと,笑い話にいはれたこともある。(pp.329-330,新渡戸26) )
この回想は,後にある新聞記者がその古い用例をいくつか見つけだしたおかげで,「自分が創造した名誉を失ふと同時に,新しい字を拵へたといふ罪も免れた訳である。しかし普通には行はれてゐなかった言葉であるやうである。」と結ばれる。
新渡戸はここで武士道の「創出」を語っている。「武士道」という用語は歴史を近世以前に溯れば必ずしも頻繁に使用される語ではなかったのである注3) 。
これはわれわれの常識を覆す事実である。われわれは,常識的に武士道を日本の歴史と連結させている。これはどういうことか。ところで,「創られた伝統」とは「過去を参照することによって特徴づけられる(ホブズボウム5) p.13)」新しく作り出されるべき伝統とされる。とすれば,われわれの常識は,実は不思議なものではない。すなわち明治期において創出された「武士道論」は,あらゆる過去に自らの痕跡を見出し,自らの歴史を創出してゆくという操作によって,あたかも自明な一直線の歴史を獲得することとなったのである。
ゆえに,武士道論は,武士道の「創出」を一時的「衰退」と「復活」として語ることとなる。新渡戸25) 自身「我国に於て駸々乎たる泰西文明の趨勢は,既に其の古来の教訓修練を一掃して,復た其の痕跡を留めざるに至りし乎。(p.220)」と『武士道』十六章「武士道の命脈(原文Is Bushido Still Alive?)」において語るが,これは武士道論者たちに共通の視点であった。注4) 「『士風』注5) の廃れゆくや弥よ太甚し,人相信ぜず,結ぶに腐縄を以てす(無署名38) p..23)」「武士道の廃せらるゝや久し,三十年来余は所謂往時の武士道にして,世に行なはるゝを見ざるなり。(福地6) p.8)」
そして,このような状態であるがゆえに,武士道は「復活」させられねばならなかった。当時日本哲学の第一人者として,武士道論叢(全三巻)を編集した武士道論の一方の雄井上哲次郎12) は「今日は時勢境遇等已に一変し,封建時代とは別世界を成せるの感あるが故に,固より武士道を復活するの必要なきが如し,然れども武士道は…日本民族の産物なり…武士道は過去の習慣なりとして軽率に捨つべきものにあらざること明かなり(p.60)」と語るのである。これは例えば「武士道は封建時代の遺物であって,進歩発達して将来に存続すべきものではないなどゝ云ふ者があるけれど,斯は甚だ思はざるの論であらう(島地32)p.411)」と同様の議論であり,時勢の変化を超えて,武士道は復活すべきであり,復活させねばならない,と彼らは夙に語ることとなるのである。
では,彼らの言う時勢の変化とは具体的にはいかなるものなのか。「武士道の如きは固より封建時代の遺物にして時勢を異にする今日の社会には,直に適用することを得ぺ(ママ)からざるは論なし(松本19) p.19)」注6) という意見を彼らはいかに解決するのか。この部分にこそ,彼らが「創造」を「復活」と語る,その理由が隠されているのであるが,まずは彼らの議論にこの点を探ってゆくこととしよう。

4.武士道の精神化
下級士族出身の福澤諭吉は,文明論を日本に導入し,文明開化期随一の啓蒙学者として活躍したが,彼は文明化の陰で衰えていく「士族」にも注意を払うことを忘れてはいなかった。福沢はいくつかの文章において武士気質の頽廃を嘆くが注7) ,しかしそれは,実に自らの「文明論」が必然的に招く結果であったことも注意せねばならない事であろう。
周知のように、福沢は,文明,半開,野蛮のカテゴリーをもって,当時の社会を解釈するが,そこにおいて幕末社会は「半開」と規定され,文明社会はそこからの離脱として語られることとなる。「封建の門閥制度を憤る……門閥制度は親の敵(福沢9) 11p)」というように,彼の中では旧社会は超えられるべきものであり,それゆえに武家政治期は決してポジティブなイメージで語られることはない。つまり,「腕力」ではなく「智力」の社会である文明社会においては,「武士」は必然的に否定されねばならず,「武」的なるものは衰えざるを得ない。封建世の遺物としての武士道,武士道の衰退といった表現の背後にはこのような文明論の枠組みがあるのである注8) 。
このままでは文明世界に武士道は復活し得ない。われわれはここで,一つの論理操作を目にすることとなる。福沢が「品行」に着目した点注9),「武士道は日本民族気質の顕現なり(傍点引用者:p.60)」「武士道も亦自から地を掃ふに至れりと云ふ者あり,噫々何ぞ然らんや。夫武士道は,形而下に現はるゝ者に非ずして,形而上に存する者を云ふなり。(p.8共に井上12))」などに見られるように,武士道を具体的な所作や物,たとえば武術や,刀や,礼儀作法や,そういったものを超えた抽象的な理念とすること注10) で,彼らはそれを,時代の変化をこえて残り続けるものとしたのである。丸山真男18) がいう「『尚武』精神の純粋化(p.168)」とは,この論理的帰結なのであり,「武士道」はここで「精神」として結晶する注11)。・・
これはまさに近代の所産であり近代の創造物に他ならないのである。
そして,このような論理操作では,これまでのたとえば「士風」「武士の気風」などという用語をそのまま援用するわけにはいかない。「士風/武士の気風」から「武士道」へとでもいうべき変化を想定するなら,この両者は,単に同じような普通名詞としての役割を担っているわけではなく,表象レベルでは全く正反対の方向を向いている。「士風/武士の気風」は厳密に定義されない日常用語で,ホブズボウム4() pp.12-13)が「伝統」と厳しく区別する「日常慣例」「因襲」に属するものであり,「士族」という存在と連結して表象され「衰退・没落」というイメージを抜き難く負わされている。「士風」といえば「衰退」という風に,この言葉は直ちにネガティヴな内容を導き出してしまい「士風」の振興はまさに覚束ないものとなるのである。このような事態に対しては,正の方向へのイメージ操作が可能な新しい言葉,新鮮で耳慣れない言葉,しかし全く聞いたことのない(=イメージが喚起されない)言葉であってはならない,そのような言葉が必要となろう。それを担ったのが「武士道」であった。われわれはここで,「武士道」が流行するためにはそれがあまり使われていない言葉であった必要すら見出すだろう注12) 。新たに力を獲得するためには新しい用語,しかもイメージの喚起力の強い語が選ばれねばならない。そのイメージを歴史に求めることは,一つの手段として有効である。「伝統」はまさにこうして参照され「創出」されてゆくこととなるのである。では,過去の参照はいかにしてなされたのか。次の問いはこれになる。

5.過去の参照―歴史とナショナリズム武士道について,おそらく最も初期に,実証的な考証(=過去の参照と歴史の創造)を行ったのは,重野安繹33) であろう。「武士道は物部大伴二氏に興り法律政治は藤原氏に成る」注13) なる論文がそれである。ここで重野は高橋昌明がいう,鎌倉武士の武強=武士道/藤原氏の文弱=政治体制という図式を提示し,さらにその武士道の源を武家政権以前の天皇中心の国家であった時代,物部,大伴にまで溯らせるという作業を行っている。この作業とは,武家から大政を奉還された明治国家を「武士道」によって支えねばならないがゆえに要請される歴史の創造なのであり,ここには日本国体(天皇)と武士道を結びつけるための論理操作注14) が潜んでいよう。井上哲次郎12) はすでに引いたように武士道を日本民族の気質とし,「武士道は本と日本民族尚武の気象によりて胚胎せられたるものにて,其起源極めて遠く,殆んど日本民族と共に形成せりといふを得ん(p . 5 9 )」と言うが,このようにこの議論が可能となるのは「武士道」をさらに「尚武の気象」と抽象化することによるといえるだろう。他にも井上が序文をよせた
(そこでも井上は武士道は日本国民の自我であるなどと言う)足立1) は「武士道の本質如何を知らうと思へば,何は扨置き,我か日本国か,古来勇武の国であったことを,先ず承知しておかねばならぬ。(p.7)」として,その源を神話時代にまで溯らせることとなる注15) 。もはやこの時点では実体的な「武士」すら必要とされないことにすらなるのである。
ここでわれわれは,武士道が,明確に明治国家主義を志向していることを知る。しかもその時,日本民族は「尚武の気象」を持った好戦的な民族であるという論理が構成される。武士ではない天皇=国体のシステムを武士道によって語る時,武士道論は必然的にそうあらざるを得なかったのだ。そしてわれわれは,このようなイデオロギーが何に対するものであったかを知ることは容易であろう。重野の論文の二年後の日清戦争,それに次ぐ日露戦争とその後の時期において武士道論が隆盛を極めることとなるのは偶然ではないのである注16) 。
ここで,われわれはとりあえずは,一つの結論にたどり着くだろう。日本民族を尚武の民族とする表象の操作は,明治天皇を公家から武人へと生まれ変わらせた明治政府の方針(飛鳥井2)参照)ともちろん相似である。つまり,ここで論じてきたいくつかの操作は,「尚武民族日本人」の「創出」に帰結し,これによって武士道論は軍事国家体制を維持するイデオロギーの中心となり得たのである(太田30) pp.61-63も参照)。だが,さらにわれわれは議論を進めねばならない。
というのも,武士道論はかならずしもこういったナショナルな枠のみに収まりきるものではなかったのである。このような言説が逆にネーションの立場を危うくするという現実の厳しい国際情勢が明治日本を待ち構えていた。すなわち日露戦争において闘われたイデオロギー戦とでもいうべき状況の中で,武士道論はナショナリズムとは別の意味を持たされ,世界に伝播してゆくこととなるのであるが,われわれはそのような視野のもとで,次に新渡戸稲造の武士道論を検討せねばならないのである。6.日露戦争と新渡戸の武士道―外に向けての倫理主義太田30) が武士道論の「非歴史性」を指摘していることはすでに引いた。太田は新渡戸の『武士道』についても,「日本がどのように欧米人に見られるかということを過度に気にして,そのことに対する関心のためにしばしば事実に対する正確さを二の次にした(p.84)」と,彼の普遍主義的な立場に忍び込んだナショナリズムを批判する。本稿の結論は,この新渡戸の過度の反応はむしろ当時の情勢の中では必要かつ有効なものではなかったか,とする点にあり,太田とは評価が異なるのであるが,だが非歴史性という一点については首肯せざるを得ず,しかもこの批判は,すでに当時井上哲次郎が行っているように,新渡戸の武士道に常にまとわりつく論点であったようだ。井上は明治三十四年に陸軍中央幼年学校で「武士道」の講演を行っているが13) ,そこには以下のような一節がある。「近頃新渡戸稲造と云ふ人が武士道といふ書物を英文で書き著しまして其中には武士道に経典なしと云っているけれ共夫れはある。即ち武教小学であります。(p.36)」また,「日本古学派之哲学」14) においても同様の新渡戸批判を行っている(pp.72-79)。確かに新渡戸の『武士道』は,同時代に出た他の武士道論とは一風異なっている。たとえば井上が武士道の大成者と位置づけた山鹿素行や,その他の和漢学者の代わりにカーライル,ラスキンといった人物が登場する。
だが,この著作が外国で執筆された英文であるということからすれば,これはあたりまえのことかもしれない。たとえば,独立評論記者(山路愛山)15) は井上の新渡戸批判を逆批判し「武士道は如何なる国にも,発達する。そうしてそれが時代的精神を包含する。(p.78)」と普遍主義から擁護するが,太田もいうように,新渡戸はまず第一に外国の目を気にして「武士道」を創出したのであって,彼の議論は普遍主義の中にいかにネーションを位置づけるか,という視点から導き出されたものなのであった。それゆえに,「凡そ歴史上,欧州と日本武士道との如くに,酷似せるものあるは甚だ稀なり。(新渡戸25) p.239)」と最後の章にて述べられるように,新渡戸は日本の武士道を西洋のChivalryと比較し,常にその同質性を示そうとするのである注17) 。
そして,このような新渡戸の議論は確かに効果を発揮し,西洋人の受け入れるところとなった。
中でも最も輝かしいエピソードとしてあるのは、アメリカ大統領ルーズベルトが『武士道』の愛読者となったという事であろう。確かにわれわれはこの事実を新渡戸の成功と額面通り受け取ることは可能である。だが,このような楽天的な解釈はここでは実は不当なのである。
なぜならわれわれは,日露戦争においてルーズベルトが果した役割を知っているからである。日露戦に勝利するためには,戦争を長引かせず,日本がある程度勝利した状態のままで講和に持ち込むことが必須の条件であった。ルーズベルトはその調停役なのであり,ここで行われたのは,日露に他の列強を加えた熾烈なイデオロギーだったのである。ここで,われわれは3節冒頭の新渡戸の文章に登場した末松謙澄を思い起こさねばならない。彼は日露戦時に何のためロンドンに行き,武士道について語ったのか。
日露戦争当時,日本の膨張に対して欧米に湧き起こったいわゆる「黄禍論」を押え,日本支持の世論を形成する,末松の役割は端的に言ってこのようなものであった注18) 。イギリスに末松,そしてアメリカには金子堅太郎が派遣され,たとえばルーズベルトが『武士道』を手にしたのは同窓であった金子の仲介によるものであった注19) 。この詳細は紙数の関係から詳述できないが,新渡戸を含め,末松,金子,すでに名前を挙げた朝河貫一などのいわゆる国際人たちは,このような人種論をめぐるイデオロギー闘争において決定的に重要な役割を担っていたのである。新興の「黄色人種」が「白色人種」と闘い,そして勝利すること,これをいかに理解するかは,国内外において大きなテーマであった。新渡戸の武士道は格好の手がかりとして,多くの国で受け入れられてゆくのである注20) 。
ところで,すでにわれわれは「武士道―尚武の日本」という表象の連結を確認した。だが,このような日本像は「黄禍論」を補強しこそすれ,決して押さえることは出来ないだろう。確かに驚くべき日本の勝利はそれで説明が付く。が,それだけでは反日の感情を押さえることは困難である。
ゆえにこの時,武士道は,国内に向けてのナショナリズムとはまた違った形で構成されねばならなくなる。その構成の中心こそすでに見たEthicalSystem倫理系なる概念に他ならない。新渡戸25)は,武士が兵士であることを認めた上で,力や特権を持つ彼らが「多大の責任あるを自覚し,乃ち各自の態度,行為を律すべき基準法度を要とするに至れり。(p.10)」とnoblesse obligeの概念を引きつついう。さらにトムブラウンを引きながら「道義」を強調し,「喧嘩なら堂々とやれ!此の蛮野幼稚なる原始的観念の裡」に,すなわち堂々たる尚武のうちに,「大に壮剛なる道義の萌芽を含み,且つ凡て文徳武徳の根帯を成すものにあらざるなき乎。(p.11)」と尚武を倫理に逆転させるのである。「武士道とは,即ち士林の輩の必ずや実践すべくして,又た絶えず此れが遵法を誨へられたる倫理の綱領なり。(新渡戸25) p.6)」「武士道とは日本社会の倫理だったのです。……一言で言うなら,日本の倫理の理想が,それと起源を共にする武士階級の未だに生き残っている人々の手から,一般の人民たちに広まって,武士道を形作っております。(末松3) pp.193-194拙訳)」などの議論は,まさにそのようなものであった注21) 。
このような新渡戸らの武士道に対して,野崎28)は渋沢栄一らとの比較からこう言う。「新渡戸や末松の立論中に見られる日本道徳論は,実際に当時の日本人の精神世界を代弁するものだったというよりは,日本人の不道徳を指弾する西洋人にたいして,その批判を躱すための煙幕として提出されたものだったように思われる。(中略)日本人も国際的な道徳基準をクリアできると主張するための概念装置として,武士道や神道や仏教や儒教が総動員されたという感が深い。(p.220)」つまり,ここで見られるのは,また異なった形での武士道の創出である。外圧のなかで国家が生き残るための,ファナティックなナショナリズムとは縁遠い,冷静な,現実主義的なナショナリズム,外国を参照,同化しながらの武士道の創出は,皮肉にも普遍主義とナショナリズムとが一直線に連なり、世界に同化することがわが国を救うことにつながる,そのような瞬間に為されたものであった。新渡戸の武士道はこのような地点に立っていたのであり,彼をナショナリストリベラリストかなどの単純な二分法で裁断してはならないということがここから理解されるだろうが,これについては稿を改めねばならないだろう。

おわりに
武士道とは,明治日本が手にした,一つの発明品であった。それは,内に向かってのナショナリズム,外に向けての倫理主義,という使い分けが可能な一つの構成体として,過去と欧米をそれぞれ参照しながら「創出」されたものである。既に引いた関の言葉通り,世界との同居のための世界的価値への同化と,特殊日本的な側面への評価の両面が武士道の中にも抜き難く混在していたこと,とりあえず本稿で確認し得たのは以上のようなこととなるだろう。
だが,これはまだ不充分なものでしかない。たとえば,重要な武士道批判の論考,階級的な立場からの戸川秋骨36) の「非武士道論」や,大隈重信29)の「武士道論」,チェンバレン4) のまさにその名の通りの“The Invention of a New Religion”などが,本稿に関連する重要なテーマとして残されている。
本稿は近代日本における「武」的なるものの思想史の序論として意図されているが,今後のさらなる研究を期して,ここでは筆をおくこととする。

注1)その他に井上11) は嘉納治五郎の「柔道」を,伝統の創造という視点からとらえ分析しており,「武道の創出」というテーマとして参考となる。新渡戸武士道に関しては研究も多いが,それらの検討は別稿に譲りたい。
注2)このような歴史像は,明治初期には一般的ではなかったようである。それは,封建時代に対する福沢の反発を思い起こせば納得できるだろう。このような像がいつ転換するのか,詳細は不明だが,たとえば加藤弘之15) は明治25年に,当時の学者たちが封建制武家を悪者とすることに反論し,貴族の華美,奢侈,武家の質朴,という像を提示しているのである。
注3)「武士道」という用語がいつから使われ出し,どう広まったのかについての研究は未だないが,少なくとも明治維新以前には頻繁に登場する用語ではなかったことは確かなようである。明治以降については,今後の研究が待たれるが,太田30) は以下に筆者自身も使用する史料群から「武士道」なる言葉が少なくとも明治20年頃から人口に膾炙していたとし,新渡戸の回想は彼の無知から来るものとする。しかし,当時においては「武士道」よりも「武士の気風」「士風」などの用語が頻出しているように思われる。実証は今後に待たねばならないが,ただし,この二用語も,安易に等値できるものではなく,抽象的な精神,理念としての「武士道」と,具体的な人々が担う具体的な行為,雰囲気などと連結した「士風」とは,全く位相の異なる言葉であるように思われる。詳細は次節。
注4)福沢の以下の言葉も引用しておこう。「有形なる身分の下落昇進に心を関せずして,無形なる士族固有の品行を維持せんこと余輩の懇々企望する所なり(福沢7) p.279)」「爰に遺憾なるは,我日本国に於て今を去ること二十余年,王政維新の事起りて,其際不幸にも此大切なる痩我慢の一大義を害したることあり。…数百年養ひ得たる我日本武士の気風を傷ふたるの不利は決して少々ならず。(福沢8) p.562)」なお,福沢は「武士」ではなく「武士の気風」という言葉を頻繁に使用する(注2参照)。
注5)注3)注4)参照。
注6)ほかにも「武士道は,昔の儘にては復活すべからず。(無署名40) p.4)」などがある。
注7)注4)参照注8)無署名40) 3頁上段はこのあたりの事情を語っている。
注9)注4)参照
注10)雑誌「武士道」39) 第一号(p.4)には剣法や柔術が,技としてではなく幽玄の心法と天啓として語られている。これは武術の精神化ともいうべき事態であり,ここに術から道への変化のモメントが隠されているのかもしれない。同雑誌第二号では中江兆民23) が祝辞を送り「武術より一変して武道に進むこと是れ余の諸に望む所ろ也(p.12)」と述べている。ところで,筆者は近代武道論をこのような観点から見直してみる必要を感じる。武術が実用性を失い,スポーツ化してゆく背景は,以下のように説明できるかもしれない。かつては「武士」「さむらい」が総体として引き受けていた「一連のpratique」の中から必要な部分だけが取り出される。それらが全く異なった他の一連の文脈の中に置き直された結果,その残余部分が新たに自律した構造を生成する,それがスポーツ化なのである。なお,ここでいうpratiqueとは,ブルデュー的な用法によるものであり,意識的/無意識的なわれわれの行為,所作,振舞いなどの総体を指すものである。
注11)新渡戸25) も武士道をひとつの倫理系(EthicalSystem)としてとらえている。詳細は後述。
注12)以上の筆者の議論は以下の当時の文章に盡されている。「殆ど死語たりし武士道は数年来新たに人の活用する所と為れるが,尚ほ動もすれば武士と武士道とを混同し,武士の弊風を挙げて武士道を非難する者あり,…武士道は元と武士の理想とすべき所にして,総ての弊害を除去し其の最も醇なるに名けしもの,落魄の旗本若くは隣家の士官を目して武士道の標本と為し,其の決して称するに足らざるを言ふに至りては,思はざるも甚だしからずや。」無署名(おそらくは三宅雪嶺)41)注13)明治25年11月13日の学士会院での講演
注14)論文冒頭に「武士道と云ふものは,マア一口に申さば,日本の国体と云ふて宜い程のもの」と重野33) は言う。
注15)重野も後に日下寛との共著34) で,分量は少ないものの,神話時代―尚武の気象―武士道を語る。他の例としては,「我が国忠君尚武の美風は,日本民族固有の性情にして,其の淵源は遠く神代にあり(p.8)」蜷川24) なども同様の発想である。
注16)ちなみに,中央公論明治37年8月号から,明治38年8月号まで,日露戦争に重なるように武士道に関する諸士の論説を掲載している。そこでは井上に始まり戸水寛人,箕作元八,山川健次郎大隈重信,本田庸一,綱島梁川らが記事を寄せている。
注17)同系列の著作としては新渡戸が序文を寄せる山方37) ,新渡戸の弟子前田17) がある。前者は「神代の尚武」に言及する部分もあるが,武士道を「廉潔」「信義」「至誠」などといった「人類の共通要素すなわちバスティアンBastianのいう「要素思惟」Elementargedankenに還元し」た部分が類似している。(新渡戸27) p.141引用者訳)また,これに対して井上は武士道とchivalryとの差異を強調していることも付け加えておこう(井上13) p.7)。
注18)外務省10) で彼らの与えられた任務が理解できる。たとえば「恐黄熱ハ欧米人ノ思想中ニ今尚伏在セリ殊ニ露国ハ百万該熱ヲ鼓吹シツヽアルガ故に之レガ再発ヲ予防スルコト(p.669)」
注19)この両者の欧米での活動は、松村正義20,21) に詳しい。本節は松村の両研究に負っている。なお、ルーズベルトが柔道を好んだという事実も、全く同様の視点から見ねばならないことは言うまでもない。
注20)例えば有名な記事としては、 The Times October3, 1904“Questions of Japanese Morality”,October 4, 1904“The Soul of a Nation”, Londonがある。
注21)なお、これに対して、三神2 2 ) の「武士道トChivalry」という文を見ると「日本ノ封建時代ニ於テ武士ノ名誉タリシハ恰カモ欧羅巴ノ封建時代ニ於テKnight(驍騎)ノ名誉タリシニ似タルモノアルカ故ニ或ハ日本ノ武士道ヲ以テ直ニ西洋ノChivelry(仮ニ欧州ノ武士道ト訳シ置カン)ニ擬スルモノアリ(p.40)」、しかし「其稍ヤ似タルモノハ概観ノミ其ノ精神骨髄ニ至リテハ頗フル異ナルモノアルヲ知ラン盖シ建国ノ基本既ニ同シカラサルヲ持テ国體亦従テ同シキヲ得ス(p.46)」とあくまでナショナリズム固執する立場も存在する。
引用文献
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