飢饉が何故おきたか?
意外なことに飢饉が国家的問題としてクローズアップされ始めたのは13世紀からで寛喜(1230)、正嘉(1258)の飢饉から寛正・享保天明天保と続く。
妙法寺紀」に甲斐の国富士吉田は(穀物の)売買が高いと飢饉、売買が安いと富貴する(豊かになる)とあり食糧が高くて買えずに餓える。また、銭かけち=撰銭・改鋳などで悪貨の流通が滞ると通貨不足の為、売買が安いのに食糧が手に入らず餓える。ここ富士吉田は富士の参詣人が宿坊に落とす収益で食糧を他から購入した都市的非農業生活圏であった。農地を持たない非農人=交易民・職能民にとっては流通の問題で飢饉が発生したのである。
「百姓=農民」では理解できなかったが、鎖国の動機をキリスト教の国内普及を恐れたというのは再考の余地ありで権力者に靡かぬ貿易業者=交易民を干上がらせる目的で実行されていたのではないか、また、国内の経済政策でも農業従事関係者=藩・農人優遇だったので、非農民が顧られない結果の飢餓があったと見る。現に鎖国が終わり外国食糧が国内に流通してからは国内餓死者の記録は殆ど見られなくなるし、東北の貧農は自作米を売って、自らは安価な中国米を購入した。
飢饉を招いたのは政策である。
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