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完全引用
http://www1.odn.ne.jp/~cbq97680/column20.htm
 クルディスタンアルメニア

 4月24日。この日はアルメニア人にとって特別な日とされている。今からちょうど90年前の1915年、オスマン帝国領内に住んでいたアルメニア人数十万人が、クルド人を含むムスリムによって虐殺された。1915年からの犠牲者数は計150万人を超えるとする説もあるが、正確な数字は明らかではない。また、トルコ政府はこの事実を一貫して否定している。
 1908年、「統一と進歩委員会」の主導で、「青年トルコ人」革命が起こされた。当初「オスマン主義」を掲げていたこの革命は、やがてトルコ・ナショナリズムの色彩を強く帯びるようになっていく。そうした状況下で、1915年3月、オスマン帝国政府によってアルメニア人の強制移送が始められた。そして4月24日、内務大臣タラートの命でアルメニア人数千人が逮捕され、その多くが処刑される。これ以後、アルメニア人に対する迫害はエスカレートしていく。この日は現在でも「虐殺の日」とされ、毎年犠牲者の追悼が行われている。
 アルメニア人虐殺は、その経過や犠牲者数において諸説あり、現在でもそれぞれの立場から議論がなされている。だが、この事件とクルド人の関わりに注目されることは少ない。虐殺はオスマン帝国政府が主導し、トルコ人およびクルド人が直接加担する形で行われた。多くの歴史書では、クルド人が虐殺に加担したとの記述はなされているものの、その経緯、およびアナトリア東部に共存していた両者の関係については、あまり言及されていない。
 当時のアナトリア東部の6州(ヴァン、ビトリス、エルズルム、ディヤルバクル、ハルプット、シヴァス)は、オスマン帝国下で「アルメニア州」と位置付けられており、多くのアルメニア人が居住していた。しかし、人口統計はアルメニア側とトルコ側で大きく異なり、正確な数字は明らかでない。1912年のアルメニア大司教の統計では、アルメニア人1,018,000人(38.9%)、クルド人424,000人(16.3%)、トルコ人666,000人(25.4%)という数字を出している。一方、トルコ側の公式統計では、アルメニア人が660,000人(17%)、ムスリムが3,000,000人(79%)となっている。いずれにせよ、虐殺以後この地域のアルメニア人のほとんどが姿を消したことは事実である。その一方で、クルド人が人口の大多数を占めるようになっていく。現在、アナトリア東部は「クルディスタン」の一部とされているが、ここがアルメニア領だと主張する声も根強く残っている。
 アルメニア人虐殺は、クルド人の歴史における暗部とも言えるが、「クルディスタン」という地域と捉える上でも、またクルディスタン分断の歴史を知る上でも、無視できない出来事である。