チャップリンではないが、大量殺戮者=キチガイでなければ”英雄”とは言わない。

八幡太郎義家←武士の精神的な祖
「奥州後三年記」沼・金沢棚の戦い
原因は、もともと清原氏と血のつながりのない清衡が、奥六郡のうち地理的に有利な南半分を継承したことに対する、家衡の不満にあったと思われる。
 家衡はまず清衡の暗殺をはかったが失敗。ついで清衡の館を襲撃。清衡は妻子・眷属を殺害されたが、自らの命は全うし、義家を頼った。
義家は数千騎を率いて家衡を出羽国沼柵(秋田県平鹿郡沼館町)に攻めた。これは数カ月の攻防となり、やがて義家軍は大雪にあって利を失い、飢えと寒さで凍死する者が続出した。時に応徳三年(1086)冬のことである。
 いっぽう、家衡の叔父の武衡は家衡の善戦を聞いて喜び、家衡に加勢。両者は沼柵を棄てて、より要害堅固な金沢柵(秋田県仙北郡金沢町=横手市の北方)に立てこもった。当時、義家の弟で新羅三郎と呼ばれた源義光は、京都で左兵衛尉の官にあったが、兄の苦戦を聞き無許可で睦奥に下向。これに勇気づけられた義家は寛治元年(1087)九月、数万の兵を動員して金沢柵の包囲を完成した。
 金沢柵の攻防戦は、中世前期の一騎打ちを主体とする武士の戦闘形態とはほど遠い、近代戦に似た非戦闘員の大量殺毅によって決着がつけられたものであった。
 激しい攻撃にも容易に陥落の様子を見せない金沢柵に対し、義家は兵糧攻めの策をとる。この作戦は成攻し、柵内の清原軍は飢餓に苦しむことになる。ついに武衡は義光を頼って降伏を願い出たが、義家は許さない。やがて冬になり大雪が降るに及んで、柵内の飢餓は甚だしさを増した。極限状態に達した清原方は城門を開いて柵内の女性や子供を脱出させようとした。これに対して義家は、柵内の人が滅れば糧食の尽さるのが遅れるという理由で、柵から出てきた清原軍の兵士たちの妻や子供を、彼らの眼前で皆殺しにしたのである。11月14日、糧食の完全に尽きた金沢柵はついに攻め落とされ、家衡は逃送しようとして討たれ、武衡は捕らえられて助命を求めたが斬られ、合戦はようやく決着したのであった。
 ところで、この時の敗者に対する処遇は極めて残酷なものがあった。義家軍の兵士たちは金沢柵に「みだれ入て」清原軍の兵・女子を虐殺し、「逃ぐる者は千万が一人なり」という凄惨な場面を現出した。
清原軍の敗北決定後、「義家の父頼義は前九年の役清原氏に参戦を依頼した際に清原氏と臣従の礼を取った」この”事実”を義家軍に吹聴したかどで清原武衡(武則の後継者)の部下”千任”に対して「歯を金箸で突き破って舌を引き出し切らせた上にその身を木につるして足元には武衡の首を置く…」という非道ぶり。
「奥州後三年記」の記述が丸々信用できる訳ではないが、後世に文武両道の名将として武士のみならず民衆にも人気の義家であるが、同時代の貴族や民衆からは恐怖の対象でしかなかった。
中右記」には「多く罪無き人を殺す」、「梁塵秘抄」では「鷲のすむ深山には概て鳥はすむものか、同じ源氏とは申せども八幡太郎はおそろしや」と記述があり。義家の院昇殿に対する警戒感があったことが覗える。

キチガイの真打=イスカンダル・ズ・アル・カルナイン
ギリシアからテーベの記憶を抹消。
BC334に小アジアギリシア人殖民都市解放を掲げたグラニコス川戦でペルシア側のギリシア人傭兵15,000〜18,000人を戦闘後処刑。たった1日で150年間ペルシアの遠征軍の殺傷数より多くのギリシア人を殺害。また、BC333イッソス戦では20,000人のギリシア人傭兵を処刑。
通算成績敵戦闘員200,000人、
東方遠征の道筋の不運な都市や村落は、虱潰しに攻撃、男は虐殺され女子供は奴隷として売却、虐殺人数は250,000人以上と推定、遊牧民に消耗戦を挑み多くの部族が絶滅。
バクトリア地方では反乱が続発すると処刑に奔走熱中、国外追放されたギリシア人コミュニティーは消滅、サカイ人の軍団は全滅し領土は完全に破壊、ソグディアナ反乱を支援したと彼が思いこんだゼラフシャン川流域の村落は全滅、2年に渡って略奪と虐殺は継続、彼の治世においては反乱=死。
アッサケノイ人は助命を条件に降伏したにもかかわらず約束ホゴで全員処刑。パンジャブ地方のマッロイ人は部族ごと抹殺、砂漠に逃げた一部の非戦闘員に対しても執拗に追撃し殺戮。
ゲドロシア砂漠の横断=個人的な冒険心を満足させるためだけの冒険的遠征。自軍兵数千の犠牲を伴う過去10年間の直接戦闘死者(なんと通算800人程度という説がある程!)よりも多数の損害。
王位継承後すぐに父の葬儀の日に兄弟2人を殺害、すぐに自分の陣営に加わらなかった名のあるマケドニア人を皆殺し、王位継承のときに最初の支持者となったアレクサンドロス・リュンケスティスもなぜか殺害。
将軍フィロタスは主要な戦闘全てに騎兵指揮官として従軍したが、ささいなゴシップを見逃したため処刑。フィロタスの父でマケドニアの軍団を創建、彼の王位継承に尽力し息子全員を東方遠征で失った歴戦の勇士でかつ命の恩人の老将パルメニオンも殺害。
グラニコス戦での命の恩人クレイトスは宴会で酔った勢いで槍で刺殺、家庭教師だったアリストテレスの甥も『アジアスタイルの平伏』に従わなかった理由で処刑、クレアンドロスとシタルケスの2人の将軍も600人の部下と共に何の警告も裁判もなく処刑。
インド遠征中、部下が戦闘継続を拒否、転進中に将兵合意の暗殺。
一説にインドの貢物=毒女(リーサルウエポン)との交接による毒殺説がある。