『奴隷解放』に先立つ3年前の1862年リンカーンは解放黒人の代表を前に,次のように宣言した。
 「なぜ,諸君らの人種の人々が(ハイチやニカラグアコスタリカなどに)移住させられねばならないか。
…諸君とわれわれとは人種が違うのだ。われわれ双方の間には,他のいかなる人種間に存在するよりもより幅広い違いが存在する。
 それが正しいか,間違っているかを議論する必要はない。

…たとえ諸君らが奴隷であることをやめても,諸君らは白人と平等に位置づけられことからは,なおはるかに遠いのだ。
…この広大な大陸の上では,諸君の人種のだれ一人も,われわれ白人種のだれ一人とも平等に扱われはしないのだ。
 諸君らは,最良の人間としてあつかわれるところへ行け」

 「それが正しいか,間違っているかを議論する必要はない」と言い切る所に,断固たる人種差別主義者・リンカーンの真骨頂がある。
 『フォーリン・アフェアーズ』(1947年7月号)のジョージ・ケナン著『ソ連封じ込め論』(いわゆる『X論文』)も,同書1993年8月号のサミエル・ハンチントンの『文明の衝突』(冷戦崩壊後の『X論文』といわれる)も,「それが正しいか,間違っているかを議論する必要はない」という姿勢で,完全に一致している。要するに,はじめから議論の余地はなく,他の意見には一切聞く耳を持たないのだ。

 リンカーンは,正統な「ジェファーソニアン・デモクラシー」の後継者であった。

 しかし,肝心の海外諸国(ハイチやニカラグアコスタリカなど)から敢然とリンカーンの申し出は拒否され,黒人を所払いするという「奴隷追放政策」は挫折した。

 そこで「やむをえざる黒人の国内定置の方程式」として,『奴隷解放』が宣言された。
 しかし,それは解放黒人を「第2級市民化」(国内棄民)に固縛するための,『有色人種の年季奉公制』という制度がワンセットになっていた。

 解放黒人は,裸のまま労働市場に投げ出され,「法の平等な保護」にあずかることになる。
 最も劣悪な条件で最後に雇われ,真っ先に首を切られるという,農奴制国家から資本制国家への移行(「新合衆国」)にふさわしい,「自由契約」労働者の大群が形成された。

 時代は再び戻るが,ジェファーソンは大奴隷主であり,奴隷増殖のため自らが所有する奴隷との間に子供をつくり,その子供達を自分の奴隷にしていった。
 『独立宣言』がいう「すべての人々」の中には,当然のこととして黒人や混血児,インディアンは入っていない。彼らは白人の奴隷(財産)として存在するか,さもなくば所払い(棄民)されるよりほかに存在形態を与えられていなかった。

 さらに,本格的な対インディアン「ホロコースト」の幕が切って落とされたのも,ジェファーソンが合衆国の初代国務長官に就任してからのことであった。
 彼が言う「自由」や「幸福」,「人権」や「民主主義」は,戦争に勝利した“征服者”にのみ授与される,イギリス人たちと同等の『帝国』の表現であった。

*追加
先輩のトマス・ジェファーソンの父系先祖の出生地は「シリア・パレスチナフェニキア人系統)」であるとのこと。