http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/read011.htm
http://www.geocities.jp/ktmchi/rekisi/cys_35.html

武士の成立 武士像の創出

武士の成立 武士像の創出

武士の成立 武士像の創出
1:石母田正
2:原勝郎
5:久米邦武
6:武士には上方・東国・西国の3型
8:1892年「神道は祭天の古俗」の筆過
http://kodaiken.moe-nifty.com/blog/2007/04/post_3954.html
13:佐藤進一、上横手雅敬、戸田芳実
14:『普通唱導集』の「世間部の芸能」には文士・全経博士・紀典博士の次に「武士」
19:源致経・頼信・頼親は殺人暗殺の常習で「治安警察が緩むと民間に武力が起こる」とは正反対に彼等自身が治安の紊乱者
21:『新猿楽記』に登場する天下第一の武者(非実在の理想化された武士)字は元、名は勲藤次は「合戦・夜討・馳射・待射・照射・歩射・騎射・笠懸・流鏑馬・八的・三々九・手狭等の上手」と射芸ことに馬上の射芸が重要視
22:武士には馬の口を取る徒歩の従者である「童・雑色・下人」、主人の替え馬を(乗馬して)預かる「乗換」、戦場ではこれに武装した郎等が従う。徒歩の従者は賤しい戦場の労働者なのに対して郎等には騎乗戦闘が認められた。
23:1116年公家新制第七条「蔵人所の小舎人、弁官の使部、王臣家巳下の雑色、使庁の下部等馬に騎るべからず事」
24:上士と下士の間は言葉遣いの違い、通婚不在など「人種の異なる者」(福沢諭吉「旧藩情」)
27:鎧の起源は両当式挂甲:鈴木敬三「甲冑写生図集解説」
34:武士・武芸の語は『続日本紀』養老五年(721年)正月甲戌条、元正天皇の詔にある。
56:滝口の武士は鳴弦の威力で天皇を夜の魔物やケガレ・邪気から護る「生ける破魔弓」、武器が魔除の機能を有する道教の発想を受容した。
・平安期には武官系武士は本来の武官職を文官に次第に奪われるようになる。
57:嵯峨朝以降の密教を中心とする新仏教が導入されると陰陽道神道が本格的に登場してくる。仏教・陰陽道神道の3者はそれぞれにケガレ、特に死穢をうるさく主張して、多くの忌避を発達させる。この影響から10世紀前後になると武士は「屠児、屠膾の類」と忌避されるようになる。
80:6位以下の録は10世紀中葉までには消滅した。(吉川真司『律令官僚制の研究』塙書房1998年)
83:10世紀「専門的歌人」は卑官
131:武士が王・国家の護りであり、その武技が「弓馬の芸」であることこそ、宋・高麗など同時期の東アジア国家の武力と通底する、日本武士の本来的な姿である。
132:「武官系武士」と「軍事貴族」の違いは、前者が氏から家への過渡期にあって「軍事部門」を担当しながらも「兵の家」形成に到らなかったのに対して、後者は中世武士への「家」と連続したこと。
134:11世紀以降、在地領主の武士化では無く、武士の在地領主(土着)化が進行する。
138:(頼朝以前には)所領は公戦の恩賞、没官=謀反人財産没収からは容易には得られない:所領は非合法な私戦・押領を通して得る。
145:”東国武士は人夫まで弓箭を使う。これでは平家は敵わない。”(『愚管抄』巻五後後鳥羽)
147:「軍中は将軍の令を聞く」:”征夷大将軍は非常時軍司令官で作戦行動中は絶対の軍令権を持つ”は「天子の詔を聞かず」という大陸の故事に倣った言い訳(中国『史記』漢の将軍周亞夫の部下の言葉として有名『漢書』周勃伝、『六韜』竜韜立将軍編にも引用されている)
148:10世紀中葉に「衛門府の少尉」の現員は左右合せて10名内外だが、鎌倉期初めには”衛門尉・兵衛尉は(定員?)40名のところを1000人を優に超えている”(『愚管抄』巻七)
160:平氏によって代表される平安期の武士は日本史上における最も真正で正統な武士。
168:武士とは社会的分業が家業の形態をとる歴史段階において成立する職業身分の一つ。
175:形の稽古しか知らず、殆どが「真剣勝負の未経験者」だった赤穂浪士が、吉良邸討入では「非常なほどみごとな戦場合理主義」を発揮し完勝した。
・ジョルジュ・デュビー『ブーヴィーヌの戦い』平凡社1992年
179:辟邪という視座から見れば、武と舞は限りなく接近している。
181:マルクスの威信は地に堕ちても「全てを疑え」は学問の金言である。
192:念人=サポーター
198:ヨハン・ホイジンガ”秩序を守った闘争は遊びである”(『ホモ・ルーデンス』第5章遊びと戦争1973年)
201:滝口は創設のとき定員10名、960年に20名、白河天皇のときに30名、3人一組で交代性、勤務期間は通算3千余日
202:滝口は物理的な脅威から天皇を守るのが主な勤務ではない:摂関期に盗賊が内裏に侵入したり、剣を抜いて禁中に侵入されても当局は真剣な対策を採らない。また、滝口が警護責任を問われた形跡も無い。『源氏物語』「夕顔」に「滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らす」と「鳴弦」といえばまず滝口が連想された。
205:近代以前の社会では技術と呪術が未分離に存在している。戦国時代の合戦を武器・武具だけ古風な本質的には近代の野戦や攻城戦と同じ論理で理解して怪しまない感覚は根本的に間違っている。陣形や出陣の日時・方角を占いで決定し、戦場に陰陽師や祈祷師を同行したのだから。
210:鴇田泉『流鏑馬行事の成立』ー院の行事、在地の武芸、神事
220:嘗ての敵方だった平氏家人(在京経験の長い)の「波多野有経、河村義秀」が鶴岡放生会流鏑馬行事の主役だった。彼等と同等の射芸水準の者が、頼朝周辺には居なかったのである。
234:『源平盛衰記』における合戦:矢合せで始まる。両軍原野に楯を突きならべて対峙する。双方の距離は「五・六段=55〜66m」。鬨の声を三度あげ、騎馬兵が鏑矢を射、相手も同様に鏑矢を射返す。ついで楯越しに遠矢を射懸掛け合う段階があり、この遠矢の戦いが合戦の帰趨を決定するほどに重要。遠矢では吹返が邪魔になるので兜を脱いだ。戦闘の終盤以外は被らずに「兜持ち」に預ける。楯突戦で敵が崩れると楯の間から騎馬武者が出る。
235:源為朝の弓は「八尺五寸=258cm」
236:馬が積載できるのは自重の三分の一が標準、体高130cm、体重350kgの在来日本馬に兜・鎧・鞍の重さ45kg、人間50kgの合計95kgを背負わせると、駈歩ギャロップ(分速300m)からすぐに速歩(分速150m)に落ちた。乗馬10分後にはやっと走っている状態。
237:荒馬(良馬)の騎馬武士には「口取」が普通二人、差縄で左右両側から引く(駄馬は一人)、古代の健児(郡司子弟からの徴募騎兵)は中男二人を「馬子」として与えられた。『類聚三代格』巻一八大同じ五年五月十一日太政官
238:実戦では雑色や舎人が口取の役割を果たす。輪形と手綱を放しての弓射も彼等の介助で可能だった(のだろう)。
238:中世騎兵の乗馬襲撃は駈歩襲歩(最速)はなくて概ね常歩(並足)か速歩。(白兵突進は無いという?)馬上射撃を禁じて白兵をふるい突進するようになるのはSW王カール12世かフリードリッヒ大王以降18世紀から。1963年佐久間亮三『日本騎兵史』上巻32〜39頁
243:実戦の太刀は切先から6〜9cmを除いては鋭く研ぎあげない。中世の絵画諸史料では騎馬武者は太刀がはじめから鞘を払って肩に担がれている。
244:モンゴル騎兵もしばしば下馬戦闘をした。:騎馬用の短弓と徒歩用長弓の2種を用意していた。弓矢も遠射用(軽い)と近射用(重い)を各30本を別箙に持った。(1995年、杉山正明『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国のへの道』73頁)
245:馬上・下馬の太刀打ち戦が普及した中世後期でも軍忠状等で見る限り矢疵が圧倒的に多い:南北朝期の合戦・手負注文を網羅的に蒐集したトーマス・コンランによれば721例中、矢疵は523件で73%、戦国期備後志川滝山城攻めの手負注文を調査した矢田俊文の研究では227例中矢疵128件で56%、切疵・鑓疵は合わせて23%
247:遠矢:現代の記録では385.4mが最高(1990年、森俊男「弓矢の威力(2)」『合戦絵巻 武士の世界』40頁)
249:源平内乱期の東国武士は矢戦ではなく馬上・地上での「組討」技術では他を圧倒した。
250:一騎打の忌避はある程度認められた:敗走中に対決を求められても「逃げるに非ず、己を嫌ふなり」で通用した。
255:「旗差」は軍容を誇示する標識としての旗を持ち主人の前後に従うので標的になり易い。風の抵抗を受けるので弓・箙を持たない。雑色から抜擢されることもあったので消耗品?
255:「草刈」は軍馬の飼料を調達(刈る)する役で卑しい身分だが、いざとなれば草刈道具の熊手・薙鎌・手鉾・長刀で戦闘に参加する。
266:「末々岐由美(ままき弓)」=弓自体ではなく射芸の一種
277:中世武術は兵農分離後も農村に滞留した在郷足軽・奉公人・郷士・浪人などの武士と農民の「境界身分」によって伝承されており、これを基盤として近世後期全国各地に、公開性・遊芸性のある「試合(仕合)」中心の農民武術が開化した。(榎本鐘司)
277:毛抜形太刀=俘囚の野剣:論者によってまちまちだが、普通は太刀姿から「毛抜形太刀」以後を日本刀と呼ぶ。日本刀の「反り」は馬上の便宜とは無関係で、打撃力の強化の工程で生じた現象。薄い刃側と厚い棟側では焼入れ時の冷却速度の違いと金属組織のオーステナイト組織からマルテンサイト組織への変態の有無によって、膨張と収縮の度合いが相違し、自然に反る。
手首を通して脱落を防ぐ「手貫の緒」の存在から元は片手使用だった。鎬造の毛抜形太刀は11世紀に出現が妥当。
281:1953年鎌倉市材木座遺跡より新田義貞鎌倉攻めの死没と思われる馬骨は体高109〜140cmで平均129.5cm。現在なら全てポニーに分類される。
284:伏竹弓と舌長鎧は同時期に貴族社会に登場する。
299:『寝殿造』はなかった:イメージ原型が出来た江戸時代の考証家が復元の資料としたのは、室町期貴族が作成した『寝殿古図』だが、この室町貴族は平安期貴族邸宅の全体像を描く資料を持ってはいない。内裏図や絵巻に部分的に描かれた貴族邸宅をもとに「空想」したに過ぎない。考古学的発掘の進展によっても「寝殿造」に該当する遺構は見つかってはいない。(1994年、京楽真帆子「『寝殿造』はなかった」高橋昌明編『歴史を読みなおす12 洛中洛外ー京は”花の都”かー)
303:「公家陣参衆」
306:「みやび」の変遷:荒れ果てた住まいの様子、老女の姿などを現す場合が多い。
309:家康は頼朝以外の政治家など眼中に無かった。
320:明治政府の初期から前期にかけて支配機構に占める士族の割合:明治14年中央・府県道の文官、武官、司法、警察、技術官などの官員総数70832人中士族は53032人、明治政府は実質的に武士の政権
321:「富国強兵」を追求するとき、国民意識の中に、武士像や貴族像が創出された。
・貴族の武・中央の武を評価する久米邦武の武士観は原勝郎の「アリとキリギリス」的な東国武士中心の武士観に蹴散らされる。